神山吉光が吠える

<第108号>日本復帰50周年記念特別企画 復帰記念行事回想録~ 時代と共に風化する沖縄問題 ~

2022.03.11



2022年3月10日(木)更新<第108号>

 

はじめに
 本年5月には沖縄の本土復帰50周年を迎える。政府は3月8日の閣議で5月15日に開く沖縄の復帰50周年記念式典について、式典は政府と沖縄県が共催し、東京と沖縄の2会場をオンラインでつないだ方法で開催することを正式に決定した。

 岸田政権の沖縄重視の現れだろうか、政府は沖縄復帰50周年の記念金貨として、表面には首里城正殿と琉球舞踊「四つ竹」の図柄をあしらった金貨を発行し、また、岸田首相も東京会場ではなく復帰50年という節目に鑑みて、沖縄会場に出席するようである。
 玉城知事も「これまでの歴史を振り返り先人たちの労苦や知恵に学び、沖縄の発展の歩みや平和を愛する沖縄の心、将来の可能性を発信する機会となるよう取り組む」とコメントを発表し、岸田首相の出席にも歓迎の意を表明している。首相の出席は沖縄県が要請したことでもあり、その歓迎は当然である。
沖縄の日本復帰から半世紀が経過した50周年の式典で、内閣総理大臣と沖縄県知事が、どのような内容で挨拶するのか大いに興味がある。
 ちなみに1972年の復帰時に当時の屋良朝苗知事が、「復帰の内容は必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとは言えない」と基地の「核抜き・本土並み」が実現しなかった復帰のあり方を強く批判していることに対して、復帰から10年後の82年には当時の西銘順次知事は「新たな時代の幕開けを迎え、県民の自立自助の気概と連帯のもとに、英知と総力を結集し、平和で明るい活力ある沖縄づくりに最大限に努力を傾注する。」と、実に前向きで未来志向の挨拶をしたことが筆者の脳裏に強く焼き付いている。

1972年5月15日「新生沖縄県発足式典」で挨拶する屋良朝苗主席


注目の92年「日米合同シンポジウム」
 過去50年の復帰記念行事の中で、筆者がどうしても忘れられないのは30年前に東京で行われた復帰20周年の記念行事である。
 1992年5月15日、沖縄の日本復帰20周年の前日。東京で催された行事の中で当時在京していた筆者が最も関心を抱いたのは、当日ホテルオークラで開催された日米合同の「復帰記念シンポジュウム」であった。
 テーマは「沖縄返還の歴史的意義と新しい日米関係」、そのテーマにふさわしく日米両国は超大物級をパネリストに振り向けていた。先ず、米国側からはキッシンジャー元国務長官にマクナマラ元国防長官、それにコロンビア大学のカーティス教授、そして日本側からは松永信雄元駐米大使と佐伯喜一世界平和研究所副会長、それに司会役として京都大学の高坂正義教授が加わった。そうそうたるパネリスト構成である。

 当日は参加者も厳選され、筆者は山中貞則元沖縄開発庁長官の声掛けで参加していた。会場の雰囲気も格調高くいかにも威厳があった。舞台中央には琉球王朝の家紋をもじった美しいシンボルマークと、「沖縄復帰20周年記念」という文字がはっきりと印された横幕が垂れている。
沖縄は1879年琉球併合で琉球から沖縄に生まれ変わり、そして、敗戦の結果27年間の厳しい米軍支配を経て、1972年の施政権返還で祖国日本に復帰し、新生沖縄県となった。
 筆者には会場に掲げられている横幕のシンボルマークが実に印象的で何となく宿命の島・沖縄の現代史を強く語りかけているような感じがした。
 そして、静かに目を閉じていると少年時代に「沖縄を返せ!」の歌を歌いながらあの復帰協のデモ行進に付いて行ったことが脳裏をかすめ、次第に瞼が熱くなってきた。
 シンポジュウムは、実行委員長である竹下元総理の挨拶で開会が宣言され、続いてキッシンジャー元国務長官の基調講演が始まった。復帰当時、竹下元総理は佐藤内閣時代の官房長官であり、片やキッシンジヤー元国務長官はニクソン大統領の補佐官であった。いわば、両者共に沖縄返還交渉の黒子役である。
 竹下元総理は、佐藤総理の名言を引用しながら「沖縄返還が長期的な日米友好を重視した両国民の英断であった」とその意義を高々と強調したものの、未来の沖縄像については何ら語ろうとはしなかった。キッシンジャー元国務長官も同じである。
 要するに、将来の日米関係はどうあるべきかについて自分の所見を述べ、その具体的方法論や沖縄問題についてはパネルディスカッションに問いかけるにとどまった。

 しかし、そこでも「沖縄返還」とか「沖縄復帰」という四文字の言葉だけは出てくるが、それは日米関係を語る場合であって、それ以外に沖縄に特化した言葉はほとんど聞かれなかった。
 筆者が日本復帰20周年を記念したあの格調高い日米合同のシンポジュームから、どうしても探りたかったのは、「沖縄返還を認めた米国側の本当の意図」と、もう一つは「施政権が返還された沖縄の未来像」について日米の指導者がどの程度の関心を抱いているかという二つの点であった。
 ところが残念ながら、同シンポジュームの中からその思いを探ることは出来なかった。
 総じて筆者の思いとは裏腹に、あの「沖縄返還」はいわゆる沖縄県民の為ばかりではなく、むしろ長期的な日米同盟を重視した国家間の大局的な利害が大きく絡んでいたことが、50年が経過した今だからこそ、あのシンポジュームの中から垣間見られたような感じがする。
翌日、沖縄現地で開催された復帰20周年の記念式典で大田昌秀知事は「県民が復帰に託した基地の整理縮小や撤去が期待通りに進まないこともあって、沖縄古来の平和志向の生き方を守ることがいかに重要であるか再認識する。」と、いみじくも沖縄の現実を直視した挨拶を述べている。筆者はその頃、会社は都内に置き、埼玉県浦和市に住所していた。
 復帰から20年が経過したあの当時、日米間では早くも「沖縄問題」が時代とともに風化しつつあることを強く感じながら、意義高いとされた復帰記念のシンポジューム会場を辞したことが筆者には実に昨年のように思い出される。
 あれから30年が経過し、我が国と沖縄県は本年5月には施政権返還・日本復帰50年を迎える。
(日本復帰50年の年に当り、本ブログでは筆者の『日本復帰関係回想録』を連続ではなく、12月まで随時適時に掲載いたします。)


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