神山吉光が吠える

<第109号>沖縄 本土復帰50周年特別企画 ~山中貞則『沖縄』を大いに語る~

2022.04.11



特別長期公開 
2022年4月20日(水) → 8月10日(水)

<第109号>



「沖縄」を大いに語る故山中貞則初代沖縄開発庁長官(1990年8月)

プロローグ

 わが国が敗戦の結果、連合国と締結したあのサンフランシスコ講和条約第3条によって、27年間も米国に委ねられていた沖縄の施政権を奪還して、本年5月15日には50年目に当り、本年は沖縄にとっても文字通り本土復帰50周年の意義深い節目の年である。
 従って、今回の『神山吉光が吠える』は復帰50年と言う時局に鑑みて、前にも雑誌『沖縄世論』と『現代公論』に掲載し、本土復帰の尊い裏面史として話題を呼んだ、山中貞則初代沖縄開発庁長官と筆者の「連載対談」を再録で一挙公開することにした。


 故・山中貞則は大正10年(1921年)9月、鹿児島県生まれ。昭和28年(1953年)鹿児島3区から衆議院議員に初当選し、昭和45年(1970年)佐藤内閣時代には総理府総務長官で初入閣。昭和47年(1972年)に初代沖縄開発庁長官に就任した。
 その他にも通産・防衛・環境・総務などの各大臣を堂々歴任した実力の政治家である。


 終戦間もない時に、沖縄が本土から切り離されて米国の支配下で喘いでいた頃、山中は国会質問の中で同じ保守政党でありながら、鳩山一郎内閣に対して「今、本土の国民がこのように元気で生活できるのも沖縄県民の犠牲があったからではないか。実に3分の1の沖縄県民が地上戦に巻き込まれて、本土決戦の防波堤になったのではないか。
 それで心配されていた米軍の本土上陸はなく、無事にわれわれは終戦を迎えて、今こうして平和な生活が出来たのではないか。あの沖縄だけが戦後もまた本土から切り離されて、米軍支配とはいったいどういうことか。
 政府もわれわれも余りにも沖縄県民に犠牲を強いり過ぎるのでないか。その沖縄県民に対する申し訳と共に、今政府にとって沖縄県民のために何が出来るのかを鳩山内閣は披瀝すべきである。」と、山中が鋭く迫り、国会議論の中で沖縄施策を論ずる原動力とならしめた。
 そして、その後の佐藤内閣では総理府総務長官の立場で佐藤総理に、総理の沖縄訪問を強く進言され、1965年8月19日に内閣総理大臣として戦後初の沖縄公式訪問を実現し、沖縄の本土復帰へ不滅の業績を遺した。
 あれから数年後、沖縄の復帰に当っては、佐藤総理に自ら担う沖縄担当大臣へ沖縄問題の全権委任を迫り、奇想天外な政治力を発揮、沖縄の復帰処理を見事に完遂した堂々貫録の政治家である。
 当時、田中角栄が目白の闇将軍と言われていた頃、山中は真昼の政治将軍として東京平河町の本城(山中事務所)から強大な影響力を発信していた。


 山中大臣と筆者の対談は「本土復帰の裏面史・裏話」をテーマとして、1990年8月11日国会近くの山中事務所で、その翌々日には鹿児島に移動して行われた。
昨今、沖縄の本土復帰に関わるメディアのリバイバルブームの中で広範のご要望もあり「対談」の全容を集大成し、再録公開することにした。

(敬称略)


初対面(東京・山中事務所)


閣文社代表取締役社長 神山吉光(1990年8月)


『沖縄世論』編集者 / 神山吉光(47歳)
 
失礼いたします。今日はご多忙のところ山中先生には本誌「沖縄世論」のためにお時間を割いていただき誠にありがとうございます。         


初代沖縄開発庁長官 / 山中貞則(69歳)
 
さあ、さあ、こちら(大部屋の中心)にいらっしゃい。どうぞおかけください。僕が代議士の成り立ての頃、東京の沖縄出身者に「神山」と言う方がおられました。(山中はしきりにその名前を思い出そうしている。)


神山
 多分その方は、長い間沖縄県人会長を務められた神山政良さんだと思います。 


山中
 そうそうその方、神山政良さん、その方と貴方はどういう。


神山
 
特に親戚関係にあると言う訳ではご座いません。ただ神山という同性なので親近感を抱き、また郷里の大先輩ということで尊敬しています。神山県人会会長は献身的に沖縄問題に取り組み、沖縄の復帰運動にも大変に尽力された方だと聞かされています。


山中
 あの神山政良さんとは度々お会いしています。神山政良さんがお元気の頃、衆議院本会議で私が代表質問をした時も、あの神山政良さんが沖縄問題に関するいろいろな資料を私に提供してくれました。


神山
 あの頃、山中先生は確か野党の立場では。


「国政参加問題」で鳩山一郎内閣に鋭く迫る

山中
 そう、鳩山一郎内閣の時代であいにく私たちの自由党が野党でいた頃です。私は鳩山内閣への質問は真っ先に「沖縄問題」を取り上げた。「現在沖縄では、米軍の占領で軍用地の強制収容が開始されている。しかしあの沖縄は歴然とした日本の領土であり一県である。それに関して鳩山総理の所信をただしたい。戦前は、この本会議場にも沖縄選出の議席が4つあったはずだ。ところが今は、1議席もない。何故沖縄県だけがこの苦痛に耐えなければならないのか。鳩山内閣は沖縄県民の心を心として戦前同様に速やかに沖縄県選出の議席を設けるべきである。総理はそれについても具体的な所信を明らかにすべきである。(中略)」と。保守党の代表質問ながら真正面から沖縄問題をぶつけたことを記憶している。


神山
 沖縄の復帰運動の中でとりわけ国政参加問題は、実現可能な段階的な要求として県民はそれに大きな関心を抱いていた。
あの頃、復帰は10年20年後でも、国政参加は早い時期に実現できるのではないか、という県民共通のある種の期待感があったと思います。
そういう時期に山中先生が衆議院本会議で、しかも代表問題の中で堂々と沖縄の国政参加問題を訴えられた、私はそれ自体に大きな意義があったと思います。あの山中演説こそがいわゆる日米両政府に沖縄問題を考えさせる原動力にもなったのではないかと思います。


山中
 
あの演説で鳩山内閣以上に大慌てをしたのはアメリカの在日大使館だった。(笑う)
革新議員ならともかく保守党議員の演説としては困るという事だ。「困るなら沖縄の軍用地強制収容を直ちに中止したらどうか」と逆にたたみかえしてやったよ。そうするとアメリカ政府に強烈な印象を与えたのか「山中という男はどんなヤツか」とペンタゴンでは徹底的に私のことを調べあげたようです。

神山
 さすがに米国です。沖縄でも高等弁務官は大変な調査力を有していて、県民は常に無用な神経を配ることを強いられた。
沖縄がアメリカの占領下にある時に、たとえ沖縄県民のためとは言え、山中先生があれだけの反米的演説をされたのであり、米国の調査網がいかに敏感に行動していたかはだいたい察することができます。

山中
 
とにかくすごい調査力、情報力だ。
「山中という男は、昭和29年頃からそんなこと(反米的な言動)を言っている。それに毎食野菜を食べないと承知しないやつだ」そんな個人的な私生活に至るまでありとあらゆることを徹底的に調べ上げて、それを永久保存版でファイルしているという、それに驚きましたよ。(笑う)

神山
 日本が日米戦争に負けたのも、結局日米間の決定的な情報力の格差が原因であると指摘する人もいます。米国のあの情報力は第二次世界大戦に於いて地球儀的にいかんなく発揮されています。
ご承知の通り、米国は日本の今後10年間の指導者になりうる政・財界の人物を常に調べ上げているようです。あの頃、山中先生は33才の青年政治家。正に調査に値する政治家として米国は注目していたのではないでしょうか。


山中
 いゃぁ、あれにはまいったよ。


国会は「山中質問」に大臣席が総立ち

神山
 
ところで時の米国政府も大慌てさせた、いわゆる青年政治家山中貞則の沖縄問題に関する爆弾質問に対して肝心の鳩山首相はどのような答弁をされたのか、大変に興味があります。

山中
 それは、例の首相答弁とは随分ニュアンスが異なっていた。
鳩山首相の答弁は、「不幸にもわが国の敗戦によってもたらされたことであり、今は国民全員が耐えなければならない時期である。誠に申し訳ありませんが、沖縄県の皆さんにも施政権が返還されるまでは現行制度でご理解をいただくしか道はない。しかし、沖縄問題を解決処理する上に於いて、今の山中君の質問は中心的に配慮する考えである」と言った調子の、大変気配りの感じられる答弁であったと記憶している。

神山
 鳩山内閣もその対応に随分と苦慮したのではないか。


山中
 あの質問によって、アメリカ側に動きがあったことでさらに政府側も驚いたようです。
私の質問の中で、「今、本土の国民がこのように元気で生活できるのも沖縄県民の犠牲があったからではないか。実に3分の1の沖縄県民が地上戦に巻き込まれて本土決戦の防波堤になったのではないか。
それで心配されていた米軍の本土上陸はなく、無事にわれわれは終戦を迎えて今こうして平和な生活が出来たのではないか。あの沖縄だけが戦後はまた本土から切り離されて米軍支配とはいったいどういうことか。
政府もわれわれも余りにも沖縄県民に犠牲を強いり過ぎるのではないか。その沖縄県民に対する申し訳と共に、今政府にとって沖縄県民のために何が出来るかを鳩山内閣は披歴すべきである。」と迫った時には、大臣席がたじろぎ総立ちになっていたことが実に印象的だった。


山中「まぁまぁ、そこまで言わなくても私はただ政治家として当然のことをやったまでです。」


神山
 
ご承知の通り、すでに沖縄の施政権は米国が握り司法・立法・行政の三権を彼らが思うままにしていた。タブロイド判の新聞一つ発行するにも高等弁務官への届け出を経て発行する時代であり、情報も本土沖縄間は米軍によって統制されていた時代です。従って、山中先生にあのような沖縄問題に関する国会活動があったとは、それを具体的に知り得る沖縄県人は少なかったと思います。恥ずかしながら、私もこの対談で初めてそのことを知り改めて心が打たれている次第です。要するに、山中先生は代議士に成り立ての頃から沖縄には強く関心を抱き、沖縄問題に深く関わっていたことがよく分かります。国会に議席を持たない沖縄県民としては実に救いの神が現れたと言っても過言ではないでしょう。

山中
  まぁまぁ、そこまで言わなくても私はただ政治家として当然のことをやったまでです。


絶大な「山中人気」その源泉は

神山
 
本誌「沖縄世論」の<編者対談>の企画に当たり、その編集会議を東京と沖縄で開いたところ、多くの方々が山中先生のご登場を希望しています。又、先般は沖縄現地で山中先生の激励会が大勢の県民が参加して実に盛大に開催されています。
現在は担当大臣でもない山中先生が、どうしてそんなに人気があるのか、私は不思議でなりません。いったいどこにその人気の源泉があるのか。また山中先生ご自身はそこら辺についてどのようにお考えなのか。

山中
  (一時沈黙の後に)知らない。私もこの頃、自分自身のことを静かに問いかけているところです。

神山
  私も沖縄出身で、沖縄担当の大臣やその周辺についてはマスコミの報道その他でだいたいは承知しているつもりです。今日まで多くの沖縄担当の大臣が誕生していますが、それらと比較して山中先生は抜群に人気があって県民から不動の評価を受けています。選挙前に政治家の後援会が選挙区内でいろいろな工作をして人集めをすることは彼等の仕事だから何ということはありません。
しかし、選挙区外で何ら自分自身は身動き一つせずに、沖縄各界の指導者が自然発生的に山中先生のところには集まってくる、それは正に人間山中貞則の引力だと解します。その引力の源泉はいったい何なのか、山中先生が沖縄担当の大臣を歴任されたのはずいぶん前のことですが、
今尚、山中先生は、衰えることなく沖縄県民から熱狂的な支持があります。

山中
 かつて、屋良主席は、私にこう言ったことがある。「山中長官、私は二度選挙しているが、まだ行っていない離島もある。しかし、長官は私が行っていない離島・小島に至るまで全てを回りつくしている。これは、大変なことになった……」と屋良主席が言われたように、私は沖縄を知り尽くす意味からも全島を隈なく廻っています。島の人々は自分たちの主席が来たことのない島に日本の大臣が来たということでそれこそ大騒ぎです。私は島の人々に対して、「皆さんは、大臣という動物がいるの知っていますか。その動物が私です。私たちは、同じ動物、同じ人間でしょう。私は今こうして、日本政府を代表して第二次世界大戦の犠牲と米軍支配を強いられていることのお詫びに皆さんの島に参りました。」
そうすると、島の人々は、急に私に親近感を抱いたのか、みんなが握手を求めてくる。スケジュールの関係で全員と握手する訳にはいきませんから、誰か最も長老の方が代表で出てくれと言ったら、どの島に行っても最長老はだいたい女性なんですね。まあ、男は昔も今も勝手なことばかりやっているから長寿は与えられない。(両者笑う) 。
全員と握手を交わしたつもりで最長老と握手を交わす。ところによっては、島の人々と浜辺で踊ったりもした。そういう中から、島の人々が日頃何を考え何を訴えているかを汲み取り、それを政府の施策の中に反映させて行った。貴方が先ほど「山中人気の源泉はどこにあるのか」と聞かれたが、こうして話をしながら考えると、或いは私のあの島めぐりの政治姿勢を県民が良く理解してくれていた、島の人々の印象に私のことが今でも強く焼き付いている。そういうことが源泉の一つをなしているような気がします。

神山
 やっぱり誠心誠意で島の人々とに真心を持って接し、そして語り合うこと。
青年政治家の頃から民族魂に燃え、異民族に支配されている沖縄県民の国政参加問題を訴えるなど山中先生の素晴らしい政治姿勢は見事にして沖縄県民にこだまし、それが選挙区以外の沖縄県内に於ける山中支持の要因・源泉を構成していると私も思います。

山中
 数年前に竹下総理の後援会を開く前に、山中後援会を先にやらなければ周囲が承知しない、自分たちの心の整理がつかないと言うことで、竹下より僕の後援会を先に開いたことがある。とにかくそうした沖縄県民の暖かい気持ちには本当に心が打たれるよ。
島々では手に入れ墨のある老婆を相手に、「島ちゃびに、耐えし老婆の入墨の、手にとりいつか共に踊りき」との自作の歌にのりながら、あの老婆の手をとってカチヤシイを踊ったことが今でも連想される。

神山
 いやあ驚きました。「島ちゃびに、耐えし老婆の入墨の、手にとりいつか共に踊りき」それは島の風土にぴったりの素晴らしい歌です。ところで、山中先生は鹿児島県の出身。ご承知の通り、鹿児島県と沖縄県は地理的には散在している離島でつながっています。沖縄県と鹿児島県の県民性にもし相違があるとすれば、それはどういうところでしょうか。山中先生の直感で結構です。

本土とは異なる沖縄の県民性


山中「沖縄の県民性は義理と忍耐」

山中
 
義と耐えることだね。すなわち義理人情と忍耐です。鹿児島県や本土の人々にそれがないということではなく、とくに、沖縄県の皆さんは義理人情と忍耐は大変に強いということです。それは本土にはない沖縄独特とも言えるでしょう。

神山
 
ご承知の通り、昔沖縄(琉球)は“守礼の邦”と申しまして、特に他への礼儀、義理人情の面においては周辺諸国からも高い評価を得ていたという歴史的な記録がご座います。現代の沖縄県民もそういう伝統的な流れを自然に受け継いでいるのだと思います。私も郷土沖縄の県民性については、そのように自覚しています。

山中
 そうでしょう那覇の町を散歩していても、行く人来る人すべての人が頭を下げて挨拶してくる。うっかりこちらが返礼を忘れると、かえって相手に笑われているような感じさえする。赤信号で車が止まっていても隣の車や正面の車から会釈を交わしてくれる。デパートで買い物をしているご婦人の方が、途中買い物を止めて近寄ってきて挨拶をしてから又元の所へ戻っていく、店員も同じ。公衆電話のボックスの中で電話をしている少年さえガラス越しに会釈している姿が目に映る。それは、貴方に「山中先生だからだろう」と言われればそれまでですが。しかし、私は沖縄県民の県民性がよく物語っていると思いますよ。

神山
 その県民性は相手によってその動作が相当に変化すると思いますよ。歴代長官の全てにあんなことをしたのでは県民の体が持ちません。やっぱり山中先生だからです。歴代長官の中には沖縄県民に名前すら知られていない人が幾人かはいます。そういう存在価値が認識されていない人が何度沖縄へ出向いても沖縄の県民性は大した動作しないと思います。今後、沖縄担当大臣になられる政治家は山中先生からご教示を賜って、ぜひ、県民性が敏感に動作するような素晴らしい政治を沖縄県の為にやってほしいものです。

山中
 
いやあ、人様にご教示を説くような立場にはないが、とにかく誠心誠意に真心を持って一所懸命にやれば、本土とは一味違って沖縄県民は必ず反応してきます。政治家になってあれを自分がやった、これも自分がやったと言わなくても沖縄県民はそのことをきっちりと見きわめています。

神山
 同感です。どうか、担当大臣に限らず政治家になられる方は今の山中先生のお言葉をしっかりと心に受け止めておいてほしいと思います。

山中
 それから県民性の中に“耐える”すなわち“忍耐”というのは、かつて沖縄県は薩摩藩の琉球侵攻にも耐え、そこで武器を禁止されたら沖縄の人々は空手に専念し、そしてまた明治初期の廃藩置県ではあの琉球処分にもとうとうと耐えてきた。そういう耐え抜いてきた経過の中で今度は又我が国の敗戦によるあの米軍の沖縄支配でしょう、そこでも実に四分の一世紀に及ぶ異民族の支配にも耐えて耐え抜いてこられた。これは、沖縄県民だから出来たことです。そして、あの米軍の沖縄支配の初期から県民の間で盛んになったのはあの空手と琉球舞踊でしょう。ということは、県民の豊かな心とその明るさ、そしてどんな圧力にも自分たちは決して負けないぞという不倒不屈の精神があそこにはあったと思います。さあ、本土の連中にそんなところあったかなあ。(笑う)要するに、沖縄県民のあの心の明るさ、そしていかなる苦難苦闘、何者の圧力にも耐え抜く強い忍耐、不倒不屈の精神こそは他府県にない沖縄県民の素晴らしい県民性だと思います。

神山
 光栄です。さすがに山中先生だけあられて、沖縄のことを熟知され、県民の心の底まで正確に見抜いておられます。恐れ入りました。

山中
 
担当大臣としてこれだけのことを知らないで、あの民族的な復帰処理が出来たと思いますか、しかしそれは冗談だよ(笑う)

神山
 (笑う)冗談とはもったいない、それも全く同感でご座います。脱帽です。手前味噌になりますが、沖縄の学校には、不倒不屈、苦難苦闘に耐えて勝つ、質実剛健、忍耐などの精神面を歌った校歌が多くあります。それらの校歌はだ いたいが県民性を大意としてそれを基礎に作詞されていると思います。あの不倒不屈の精神は、子供の頃に校歌でも歌いそして自らの人間形成となり沖縄の風土にも根強くそれが土着しているのだと思います。改めて立派な県民性だと自負します。




沖縄大臣の就任は総理からの「全権委任」が条件

神山
 ところで山中先生は担当大臣の頃、実にテキパキと沖縄の復帰準備を進めておられた。復帰前年に開かれたあの沖縄国会で成立した法案は六〇〇本を越えていたと思います。

山中
 
いやあ、あの時は大変でしたよ。連日徹夜状態。国会はそれこそ毎日が沖縄問題の審議でしょう。

神山
 山中先生の政治的な手腕力量もさることながら、どうしてあれだけの仕事が成し遂げられたのか、又佐藤総理は組閣に当たって山中先生にどのようなことを話されたのか、そこら辺も大変に興味があります。

山中
 組閣の際に例のあの呼び込みが始まって、「山中来てくれ」というので行ってみた。そうしたら、佐藤総理が「総務長官をやってくれ」というので私は「役不足でご座います」とそれを断った。立ったまま引き下がろうとしたところを総理が再び「山中君、今頃そんな調子では困るのではないか。いったいどうしたのか君」と言われたので私は、「総理あなたはどうして『沖縄担当大臣をやってくれ』と言われないのですか。沖縄の復帰準備の仕事を私にやってくれとはっきりおっしゃらないのですか。日本の政治家で沖縄の仕事をやってくれと言われれば、それを断る政治家はいません。そう、おっしゃってください」そうすると佐藤総理は大きな目をパチパチしながら、「山中君、何も君とオレとの仲でそんなことを言い交さなくても……では、言ってやるよ。山中君、沖縄担当大臣として沖縄の復帰準備の仕事を君に頼む」と総理はそう言われた。

神山
 これで初代沖縄担当大臣(総理府総務長官・沖縄開発庁長官)山中貞則の誕生ですね。

山中
 総理が改めてそう言われたので私は引き受けることの返事を保留したまま、佐藤総理に次のように引き受ける条件をぶっつけた。「総理それには条件がご座います」と言うと総理は大声で「まだあるのか」と言われた。私は「山中はまだ引き受ける返事もその条件も何一つ申していません」と言うと総理はまたあのドラ声で、「まあいいから言ってみろ」ときた。あの当時のことを昨日のように思い出しますなあ。

神山
 その条件はいったい、どういう内容でしょうか。あの時の総理とのやりとりにも興味があります。

山中
 …<無言>…(あの時の条件を明らかにするか、どうするかを一考の様子)



山中は「話そうかなぁ」と考え込む

神山
 本誌「沖縄世論」の編集会議でも大勢の方々の意向が山中先生には、大いに語っていただきたいということだった。この企画の意義もそこにあります。またこの対談の中心的な目的もそこにあります。ご都合が許せば是非お聞かせ願えれば幸いです。

山中
 まあ、今日はこうしてお互いに見たいテレビも見ないで頑張っているから……(山中はでは話そうという様子)

神山
 ありがとうございます。

山中
 
私は、その時に佐藤総理に沖縄担当大臣を受けるに当って、明確にその条件を言ったんです。「総理、国の外交権を除いては総理の指揮権も含め一切の権利を私に任せてください。その条件が認められましたら、大臣を引き受けましょう」と。

神山
 
それに対して総理の反応は。

山中
 驚いたのか赤顔になって、急にあの大きい目を瞑り両手を組み考えこみました。それでも私は話を続けた。「総理、沖縄は現在も車の交通方向一つとっても反対、通貨も違う、それをたったの正味2年で本土他府県に近い状態で復帰させるのは大変なことです。この2年間で途方もないと思うようなことをやらなければ、復帰準備は進みません。沖縄の社会はそれこそ大きな混乱をきたします。他の大臣がいろいろ言ってきたのでは、復帰の仕事はやれません。大臣を引き受けるに当って、全ての権利を山中にお任せいただきたい。私は自分の為にそう言っているのではない。私自身はどうなろうと構わない。私は去った戦争でわれわれ一億国民を守るために住民もろともに戦いそして破れ、今も尚苦しみに耐えている95万沖縄県民のために申し出ているのです」と。

神山
 なるほど、佐藤総理に決断を迫り総理の気持ちを動かした言葉とはその事ですか。そこで佐藤総理はどうおっしゃいます。

山中
 いやあ、佐藤さんは、まだ、目を開こうとしない。間もなくしてあの大きな目がパッと開き「山中君、一応座りたまえ」とだけ静かな声で言われたと思う。私はその時まで起立したままだよ。だって条件が認められなければ大臣を引き受けないというのだから座る訳にはいかないでしょう。私は佐藤総理の顔色から総理の意向がだいたい読めたのでその時初めて座ることにした。しかし、総理はまだ回答しようとされない。また目を閉じられた。私も黙る。その間十五分間程度だと思うが、随分長く感じられたなあ。

神山
 それは大変な決断時だと思います。


山中
 
そうすると総理は突然目を開き、私の方に身を寄せて、「山中君分かった。君に任そう」と切り出した。少し間をおいて、「山中君、オレが(昭和40年8月) 沖縄に行ったのも君の進言で君に引っぱられて行ったようなものだ。君なら出来る。沖縄の復帰準備は君ならやれる。君に任そう。沖縄県民のために、君の思うように大いにやってくれ」と実に明確に佐藤総理は回答してくれました。私は、総理のその言葉に対して「山中はやりますよ。奇想天外な事をやりますからどうぞ見ていてください。ありがとうございます」と感謝の意を告げて退ったんです。


神山
 なるほど。その瞬間で、人間山中貞則と沖縄県の関係は決定的になった訳ですね。

山中
 その通りです。あの瞬間が、今日あることの起源にもなっていると思います。

神山
 山中先生、ところで佐藤総理は何かおっしゃいませんでしたか。

山中
 いかに?

神山
 総理は、「山中君は一体何処の人間だ。鹿児島の人間か、それとも沖縄の人間か、この際はっきりしたまえ!」と。(冗談口調)

山中
 
(笑う)だって貴方、そんなことないでしょう。沖縄担当大臣といっても、総理府総務長官、開発庁長官というのは単に沖縄問題に限らずいろいろな仕事を抱えている役所でしょう。鹿児島のことも、九州のことも、そして国家に関わることも大いにやりましたよ。今日は、たまたま「沖縄世論」の沖縄をテーマとした対談ということに限らせているのであって…。鹿児島のことも大いに話したいですよ。それでは全部話しましょうか。(笑う)

神山
 いいえ。今回は誌面の都合もありますので、そこら辺は鹿児島の方々によろしくご理解いただいて、やっぱり沖縄関係に話を絞りましょう。(笑う)
そこで、佐藤総理は結局、山中先生の要求に応えてほぼ全権を先生に託す訳ですが、佐藤総理は「山中に任す」というその時の約束を最後まで守られたのでしょうか?



復帰時の佐藤栄作内閣総理大臣

山中
 
佐藤総理も、あの沖縄国会での沖縄問題を審議する委員会はほとんど出席しています。あの時、総理は大変に熱心な動きをしていました。そういう総理ですから私との約束も最後まできちっと守っています。総理も細かい指示を大臣に発することはない。大臣も総理の指示を仰ぐようなことはない。勿論、国家の外交権は別です。それが佐藤さんと私の固い約束であり不動の信頼関係です。だが総理はさすがに一国の宰相だけあって、私が何を考え、何をなし、そして今どうなっているかという情報だけはしっかりと取っていたようです。

神山
 
困って、山中先生から相談に行ったということは?。総理は、山中大臣から何かを言ってくるのではないかと心待ちに構えていたような気がします。

山中
 相談に行くなら沖縄県民のところ、沖縄へ相談に行くよ。実際に何度も足を運んだでしょう。(笑う)そうだ!特に困ったことといえば、そうそう、あの時ぐらいのことかな。

神山
 それはどういうことでしょう。

用意万端の通貨交換
山中
 ほら、あの通貨交換です。沖縄の本土復帰にともなってドルを日円に切り替えたでしょう。また、ドル交換のレートを区分するために沖縄で流通している一部のドル紙幣にスタンプを押したのを覚えているでしょうか。

神山
 ええ、鮮明に覚えています。

山中
 アメリカ政府から「独立国アメリカの通貨(ドル)に外国(日本)のスタンプを押すとは何事か」と我が政府に抗議が来たんですね。
確か、一度は電話、二度目は文書だったと記憶している。その時だけは私も困ったし、総理もお困りになっていたと思う。私は辞表を用意していたくらいだから。



米国の抗議は問題にしないという山中

神山
 アメリカ側では、主権の侵害とでも言いたかったのでしょう。ところで、その抗議に対して我が日本政府としては。


山中
 アメリカから抗議が一つや二つ来たからといって方針を変えることはしません。佐藤総理もそう言われましたよ。「山中君、ときにはアメリカの頭越しにやるのも気持ちいいね。構わないから君の思うように、やりたいように大いにやってくれ!」と。

神山
 「時にはアメリカの頭越しに…」佐藤総理の言葉はなかなかの意味深です。当時のニクソン大統領のことを思い出します。(日本を頭越しに中国へ行ったこと)


山中
 そうです。あのキッシンジャー国務長官が北京に秘密工作してきたその直後に、ニクソン大統領が日本を頭越しに中国へ飛んでいった。あのときのアメリカの外交手法に佐藤総理はよっぽどいやな思いをしたようです。


神山
 当時のメディアによると、ニクソン大統領が中国に飛んでいったときは、自民党内も大騒ぎ、国会でも野党からは迫られる、佐藤総理は実に不眠不休の連日であったという。総理の「山中君、君の思うように、やりたいように大いにやってくれ!」と言う言葉はその時の総理の心境を察するに充分です。


山中
 一国の通貨はその国の施政権を象徴するようなもので実際は大変のようです。しかも一部分とはいえ外国の通貨を汚染(消しゴム付鉛筆で印すること)するんでしょう。それは世界の通貨史上に永々と記録されると思いますよ。

神山
 アメリカの文化人の中には、「世界でも美しい=日の丸=の国旗を持つ紳士の国がまさか外国の通貨を汚染するとは理解し難い」と評する者もいたようです。もし、東京・大阪など大都市であのような通貨汚染が行われていたらそれこそ国際問題にまで発展し、佐藤内閣は窮地に追い込まれていたのでは?

山中
 いや、なんと言うことはない、その程度のことは覚悟のうえです。私は以前に佐藤総理にも言いましたよ。「アメリカの圧力で通貨の交換が予定通りに進まなければ私は辞めますよ。でも、総理、これだけ(汚染通貨の交換も含む)は実現してくださいよ」と。それに対して、総理は「山中君、時にはアメリカの頭越しにやるのも気持ちがいいね……」と繰り返し私を激励されたのです。

神山
 もしもあの時、国際通貨基金によって汚染された通貨は無効だと宣言されたらどうしましたか?

山中
 用意周到に準備していましたから何時でもどうぞということです。
その心構えは十分にできていました。私は総理に言ったんです。「総理、沖縄の汚染通貨は日本円に換算して約三百五十億円程度(当時)だと思います。万一それが無効という宣言がでたら、それをそっくり日本銀行で買い取ってくださいよ。そうしないと沖縄県民に大変な損失を強いることになりますよ」と。
総理は「分かった。その時は日銀にその全部を買い取ってもらう、その程度のお金で沖縄県民に及ぶ損失が防げるならそうしよう」と即答された。それでこの問題の心配は無用というわけです。

神山
 それは実に完璧です。
(これで第1回目の「対談」が終了し、翌々日には鹿児島の山中事務所に移動して第2回目の「対談」が行われた。)



神山「それは実に完璧です。」

山中
 それから、先日の対談のあと一つだけ今思い出したのがあります。
それは、沖縄復帰の翌日5月16日のことです。復帰の式典はご承知の通り東京と沖縄で15日に同時刻に行われましたが、総理は東京の式典に、私は沖縄の式典にそれぞれ参列し、私が戻ってきてからの閣議のことです。今日まで沖縄のことについてはまったく私に任せきりで何も言われなかった総理が「山中君、沖縄は通貨の切り替えに伴って社会混乱を起こしているようだね。どうだろうか」と、聞かれた。

私が「買う人も沖縄県民であれば、売る方も沖縄県民そこは自ずと一定のコンセンサスが生れます。
しかし、不足している物資は速やかに補充しなければなりません。それも私の出身の鹿児島にある南九州畜産工業から豚肉等を積んだ船が沖縄に向かい、もう今頃は先発の船が那覇の港についている頃です。
そういうことで物資不足は次第に解消していくと思います。後は日常のことで、それはもう時間とともに落ち着きを取り戻してきます」と申し上げると総理は「もう、そこまでやっていたのか」の一言です。さすがに、何も言われない総理でも常日頃の情報だけはきちっと取らせてあるんですね。
私の在任中に、佐藤総理が沖縄問題で私に何かを言ったり聞いたりしたのは後にも先にも記憶にあるのはこの二回だけです。

神山
 ニクソン大統領と佐藤総理が昭和44年11月に会談し、そこで、「両3年内には沖縄返還が実現する」という日米共同声明が発表され、その後わずか2年余の準備期間をおいて沖縄が復帰します。
当時、沖縄県民の一部には復帰準備が遅れたらそれこそ本土復帰そのものも1年や2年先に延びるのではないかとの不安を抱く者もいました。
しかし、2年間で見事にそれが完遂されあのような形で沖縄が復帰していきます。わずか2年余という短い期間でどうしてあれだけの仕事が完遂されたか、それを知るということは復帰史の全体を見るうえで大変に重要なことだと思います。
私は屋良主席や沖縄側の功績だけを称えようとは毛頭考えていません。要するに、沖縄の復帰準備が極めて順調に進められたということは佐藤総理と山中長官の不動の信頼関係が基礎となったあの固い約束が功を奏したと思います。

「沖縄は屋良革新知事でよかった。」

山中
 あの頃、確かに自民党の一部にも「山中はあまり沖縄の革新主席に加担しすぎる。結局は革新政権の功績にとれるのではないか」という人もいました。しかし、それは次元が違います。私は、私が動くことが革新屋良政権の功績になろうとそんなことは構わない、要するに、沖縄県民全体の為になればそれで結構ということです。


神山
 では、屋良さんの話が出ましたので、ついでに山中先生から見たところの当時の行政主席としての屋良評を伺いましょうか。


山中
 (暫く黙って、その後に) 私と屋良主席・屋良先生とは台湾時代の師範学校で恩師と教え子の関係、師弟関係にあるんです。(山中は教え子が恩師を評するわけにはいかないという様子)

神山
 私は、屋良主席は政治家というよりも教育者であったと思います。昭和44年、佐藤総理がニクソン大統領に「沖縄返還」の了解を取り付けて帰国します。その折、帰国する佐藤総理を沖縄の主席として羽田空港に出迎えに行くべきか、どうするか、当時沖縄側の民意は真っ二つに割れていました。屋良さんは両論に挟まれて悩みに悩み熟慮の末ようやく佐藤総理のお迎えに出ることを決断し、そのために那覇空港を発ち東京へ向かいます。

ところが、東京のホテルには多くの民主団体や屋良主席の支持団体から「主席は出迎えに行くな」の抗議電報が寄せられていた。その山となっている電報を見た屋良主席はそこでも一晩中考え込み、とうとう佐藤総理の出迎えに行くことを断念し空身で沖縄へ戻ってくる。沖縄側では中学生の修学旅行でもあるまいし、行政主席たるものがいったい何をなしに東京まで出向いて行ったか、と批評する人にも多かったと記憶しています。あの時、屋良さんは自民党の保利茂さんから大声で怒鳴られていたというエピソードもあります。




山中
 確かに、そういうこともありました。あの時、屋良さんを羽田に向かわす為に自民党内でもいろいろな人たちが動いていたと思います。


神山
 政治家というのは民意を指導するのが政治家だと思います。しかも、あの時、ホテルの屋良主席に打たれている電報は全て革新団体が発信したものであり、それは屋良主席のいわば支持団体です。
自分の支持団体であればこそ、その意見を自分の考える方向に説得し、屋良主席は自分の意志を貫くべきだったと思います。屋良主席が自らの意志を抑えて支持団体の意志に屈したことは大変に残念です。政治家にとって最もみっともないことは自らの軌道を修正することだと思います。



復帰時の屋良朝苗主席

山中
 しかし、ある一面に於いては、沖縄が復帰する前の県政はああいう革新の屋良さんでよかったと思いますよ。


神山
 沖縄の屋良革新政権と日本政府の保守自民党政権は、あの頃、仕方なく調和して復帰準備を進められていたと思いますが、只今の先生の話はどういう意味でしょうか?

山中
 だって貴方そうでしょう。あの時、もし沖縄が保守政権つまり自民党主席であったら、それこそ全ての革新政党・革新団体が保守党の打ち出す施策・復帰の進め方に対して確実に反対してくる。自分たちが支持して当選させた屋良主席だから、革新政党は反対する訳に行かない。それが逆になっていたら、それこそあれも反対、これも反対で復帰の仕事は進みません。そうでしょう?
 私は総理にも言いましたよ。「総理、あれ(革新屋良主席知事)でいいのです。あれだからきわめて順調に仕事も進みます。我々が欲を出して自民党主席にでもしていたら、今頃沖縄の革新政党と民主団体は自民党主席の打ち出す復帰施策に総立ちで反対していますよ。ところが、支持する屋良さんには反対することが出来ない。だから当分の間、屋良主席でいいんす。」このように所見を述べると総理も同感していました。


神山
 それでも、佐藤総理を羽田に迎えに行く!行かない!の問題で屋良主席は革新団体の圧力に屈してそれを断念している。事実、支持母体である革新の反対を抑えることが出来なかった。

山中
 それは、反対を抑えることが出来なかったのではなく、あの問題に関して屋良さん自身も自分の中にある種の迷いがあったのではないかと思います。だから、説得できなかったのではないか。

神山
 本土政府は屋良主席をはじめ沖縄の革新の動きを大所高所から判断されて実に上手に協力させる方向に指導しています。私はそれが政治家だと思います。「逆も真なり」と言いますが手法の一つで逆が真に変わったような気がします。

山中
 現実にああいう過去の手法が沖縄の発展にも結び付いているのです。

神山
 ああいう手法をとるのも一つの政治手腕であり、その政治手法を成功させたということは、正に政治家山中の力量だと思います。ところで、いろいろな人、さまざまな団体がありましたがその中で「この連中は困ったなあ」と不快を意識することがございませんでしたか?、つまり復帰準備を進める上で障害となった個人や団体のことです。

佐藤初訪沖の請願デモ隊は心外

山中
 言われる通り、いろいろな人、さまざまな団体の代表と会っているが、特に復帰準備を進める上での障害と意識するような人たちや団体はなかったと思う。ただ、思い出の一つに復帰前の佐藤総理初訪沖(昭和40年8月)の際のあの請願デモには驚いた。あれは多分復帰協が主催したと思うが、あれには、さすがの総理も弱っていたよ。

神山
 あの日は、確かに復帰協が中心となって、全県各地で抗議デモが展開されています。



大荒れの抗議デモ・警官隊が実力行使

山中
 人様が寝倉に帰るのをそれを妨害して帰さないと言うのだから大変なデモです。総理一行が宿泊先に指定してあった東急ホテル前の道路(現在の58号線、琉球新報社天久ビル前)はデモ隊によって、完全に占領されていた。車も通れない。勿論、歩いてホテルに行ける状態でもない。最後は、私がデモ隊に飛び込んで行き、説得を試みたが、やっぱり駄目だった、と言うよりも実際には那覇署からも「警備に責任が持てないので、山中先生も現場から直ちに立ち去って欲しい」という警告もだされていたのでそれに従うことにした。

神山
 実は、私もその時、あのデモ隊の中にいました。しかし、請願デモに参加しているのではなく取材の為です。ちょうどその日は天気も良く、真夜中の11時頃だったと思います。山中先生が、数人の男たちに守られながら、人垣を分けて、デモ隊の中に入って行かれたあの姿。そして、あそこで、デモ隊を説得していたあの光景が今でも記憶にあります。



その日の思い出を回想する山中

山中
 
(腕を組み視線を上しながら考える様子で)私がデモ隊に対して「皆さんの気持ちはよく分かる。しかし人は皆自然に寝倉に戻る。人様が寝倉に帰るのをそれを妨げることは主義思想とは別の問題ではないか。とにかく、今夜のところは、総理をホテルに帰してほしい。又、明日でも日程をとって話し合おうではないか」とくり返し説得を続けていると次第に周囲は静まり返っていた。
ちょうどその頃那覇署から「警備に責任が持てない」といわれたので、私も現場を退くしか方法はなかった。

神山
 あそこ(天久の東急ホテル前)の道路を占拠していたデモ隊の中には、政党、民主団体、労組、学生、一般市民ら多くの組織が参加しています。最も請願デモで秩序正しく行動していたのが沖縄人民党(現日本共産党)であったと思います。
私は隣のビルの屋上からも現場を取材していましたが、人民党の周囲が最も冷静で知的な感じがしました。彼らはデモの嵐の中でも古堅実吉書記長(後に衆議院議員)の指揮の下で完全に請願デモの統制がとれていた。共産党の統制には驚いたが最も過激であったのは学生と一部労組です。ところであのような過激なデモ隊に直面された佐藤総理ご本人はあの時どのように感じておられたか。あの時の総理は側近の山中先生に何を話されましたか。


山中
 あのデモ隊に直面した総理は、「山中君、僕は沖縄の人々の為に悪いことをしているのだろうか」の一言です。私の返事を聞く風でもない小さい声で弱く一人言のように総理は言われた。
私が「総理それは違います。沖縄の人々には、長い間、異民族の支配に喘ぎそしていよいよ復帰が具体化しつつある時、その復帰準備は、保守自民党の手によって進められている。このことに対する反発とある意味の戸惑いを感じているのです。必ず総理の気持ちがわかるときが来ます。」と話しても、総理はそれを聞いているのか聞いていないのか目を瞑り黙ったままであった。沖縄問題を審議する全委員会に出席し一つ一つ丁寧に答弁される、昼食、夕食も委員会の控室でとる程に総理は実に真剣で懸命であった。佐藤総理からすれば、あの請願デモ隊の行動(総理一行をホテルに返さない)は、誠に心外であったと思います。



神山「総理に直訴するには絶好の機会」

神山
 佐藤総理に“非礼”といえば非礼に当たると思います。だが、当時は沖縄の島全体が復帰運動で揺れ動いており、誰にもそれを押さえる力はなかったと思います。あのデモ隊が如実にそれを象徴しています。佐藤総理の心にも強く焼き付いたのではないかと思います。
ご存知の通り、佐藤以前の歴代総理の中で沖縄を訪問したのはたった一人。昭和18年の東条英機首相だけです。私たちが生まれた年です。
しかも、それは戦時中、東条が東南アジアの前線視察から帰途に立ち寄ったもので、特に課題を持った公式の訪問とは言えません。県民の間でも、その記憶はほとんど残っていないと思います。従って佐藤総理の訪沖は沖縄県民の立場からすれば、祖国の総理の初訪問であり、総理に直訴の出来る絶好の機会です。また、沖縄の復帰問題を背負っている権力強大な総理であることを考える時、その感を一層強くしたと思います。

山中
 異民族支配の下で日の丸を手にして長い間にわたり、祖国復帰を叫び続けた県民の心と魂そして、いざ復帰となれば、どのような形で帰るかという不安と、苛立ちの気持ちが根強く広がっていたことは、よく理解できます。総理も過激なデモ隊に、会うことはある程度心得ていたようです。


神山
 あの日とうとう、佐藤総理一行は請願デモ隊に通行を遮断されて、宿泊予定の東急ホテルには戻っていません。つまり請願デモによって、日本の総理が外泊を強いられています。ところであの夜、佐藤総理はどこでお泊りになったんですか。
後日になって与儀の南方連絡事務所や主席公舎、そして北谷の米軍施設(高等弁務官舎)などと総理の宿泊先については、いろいろな情報が流されています。ところが、南方連絡事務所(現那覇署の位置)や主席公舎(現知事公舎)も当日はしっかりとデモ隊が配置されており、又米軍施設に於いても、日本の総理が自国の領土内で他国の軍事施設内に宿泊するということは先ず考えられないことです。
間もなくして、当時の琉球政府は「佐藤首相は松岡主席の私邸に宿泊された」と発表していますが、それも総理の立場に配慮した儀礼発表と受け取っている人も多いようです。あの夜、佐藤総理はいったいどちらに宿をとられたのか復帰の裏話の一つとしても大いに関心があります。


山中
 あの日、確かに米軍施設も仮宿泊先として、検討されていたことは事実です。しかし、最終的には、佐藤総理は、琉球政府の発表通りまちがいなく、松岡主席の私邸にお宿をとっています。あそこ(松岡私邸)には、ちゃんと総理が用いた寝具を記念にとってあるという話も聞いています。それは発表の通りです。

神山
 それは良かった。あの発表を聞いて沖縄県民は佐藤総理に深い親近感を抱いたと思います。まさか、祖国の総理が自分たちを支配している米軍の施設に宿泊するわけがない、そうあって欲しくないという県民感情があったからです…。話題を変えて、次に移ります。

山中
 
いやあ、もうお昼の時間です。どうですそこで一寸中断して一緒に食事でもしましょうや。

神山
 
では一時中断ということで…。

昼食時の四方山話

山中
 
(秘書に食事の支度を指示しながら)神山さんは、豆腐はいけますかな。

神山
 
私は豆腐とそばが大好物です。薩摩豆腐なら尚結構でございます。

山中
 
近くに立派なおいしい豆腐屋さんがあるので、いつも出前でとっているのだが今日の味はどうかな。さあ、どうぞ召しあがってください。

神山
 
ありがとうございます。ではごちそうにあずかります。

山中
 
食事の間だけでも雑談ということにしましょう。(笑う)いやあ、それにしても屋良先生に勲章をやるのにはハタと難儀をしましたよ。(笑う)

神山
 
いえ。どういう訳ですか。

山中
 だって貴方、本人が「もらわない」と言うのだから困りものです。「屋良先生、それは何故ですか」と聞いたら「自分がもらったら、自分を支持している革新の諸君が承知しない。」とおっしゃるんです。「屋良先生それは革新の間違いではないですか。勲章というのは何も保守党政府から頂くものではない。陛下が下さるものなんです。先生の立場はそれでいいかもしれない、しかし先生が勲章を拒否することによって、後の人も前例によって、今後は受けにくくなりますよ。先生(屋良)には他人まで前例を負わせる資格があるんですか。それはないでしょう。先生、自分の立場だけで物を言ったら困りますよ。」といくら話しても応じてくれない。(笑う)とうとうしまいには、奥さんにまで「おヨシさん、もうなんとかしてよう。」と電話を入れたらどうにか納得。いやあ、あの屋良さんを解きほぐして勲章をやるのに偉い苦労をしましたよ。

神山
 
そんなことがあったとは誰も知りません。それは初耳です。



しきりにその人を思案する山中

山中
 
それからもう一人、昔、西銘君(元知事)らが門下生となって師と仰いでいたあの人、ほら前に主席もされた人よ。(しきりに名前を思い出そうと)

神山
 
西銘さんが師と仰いだ人ですか、ああその方は当間重剛先生です。


山中
 
うん。その当間重剛先生が晩年の頃、病に重しと言うので早速見舞いに出向こうとしたら、「今の当間重剛は山中さんに、お会いする訳に参らない。」という。どうしてかと聞いたら「山中の頭の中には昔の当間重剛のさっそうたれし姿や言動が残っている。それをそのまま想い出として胸にしまっておいてほしい。
病床の当間重剛の姿を山中には見てもらいたくない。」と言われた。
「では見舞金だけは受け取っておきなさい。」と言ったら、あの屋良さんの勲章とは違って「見舞金なら大いに結構。できるだけ多い方がいいので沢山送ってほしい。」と大笑いしたことがある。(両者大笑い)

神山
 
当間先生は政治家として、沖縄政界では象徴的な存在で、政界を勇退されてからも体協の会長をなされるなど広範囲から沖縄の復興に尽力された郷土の大先輩です。



第2代行政主席 当間重剛氏

山中
 
その通りです。当間先生が沖縄の体育協会に自分の土地(現在の奥武山の体協会館の敷地)を提供されたので私は、財産を公共に提供するという当間先生の心意気に感銘してそれに応えるために、建物(体協会館)の建設資金全額を国庫補助で充てることにした。ご存知の通り、そんなことは他府県にないことです。「それが当間先生へのお礼の証です。」と言ったら先生は大変に喜ばれました。いやあ、あの在りし日の当間重剛先生。実にさっそうたれし姿でありました。昨日のように思い出しますなあ。ところで沖縄の八重山の話ですが、神山さんは行かれたことがありますか。

神山
 確か、八重山には2度程行っていると思います。そこには宮良殿内という水準の高い文化財があったことを記憶しています。

山中
 そうそう宮良殿内のある石垣島近くの竹富(黒島)あそこには「山中の家」という別荘があります。島の人々が名誉町民の山中が来る時に泊めようと勝手に建てた。鉄筋、赤瓦、2階建ての家です。(山中はまるで自分の生まれ島のことのように語る)

神山
 今時の政治家が聞いたら実に羨ましい話です。

山中
 いやいや他からも「別荘用地を提供するからどうぞ立ち寄って下さい」という話は沢山きたんですよ。勝連村では議会で協議までしていたと思いますよ。私は「それは恐縮でございます。心よくいただきます。ありがとうございます。しかし、別荘用地はそのまま村に寄付させていただきます。」とお断りしたら、そのことが、今では笑い話になっています。(笑う)

神山
 従って、向う(旧勝連村役場)には山中先生の大型写真が飾られているんですね。さて、まだまだ余談をしていたいのですがそろそろこの辺から本談へ移らせていただきます。

山中
 どうぞ結構です。進めましょう。

5月14日、復帰前夜の四者会談

神山
 沖縄が復帰する昭和47年の5月14日、その日は復帰の前日です。その日の夜7時から山中先生をはじめ、高瀬大使、そして屋良主席の3人はランパート高等弁務官に招かれ瑞慶覧の将校クラブで晩餐会を行っています。それは晩餐会というよりも、米軍支配下の最後の4者会談であったと解する方が正確であると思います。
正にあの会談は復帰の時間が刻一刻と迫る中で行われており、名実共に歴史的な4者会談であったことに間違いありません。さて、あそこ(4者会談)で何が話し合われ、そして何が決められたか、当時のマスコミもその会談があったことを事前には知らなかったようです。


山中「儀礼的な話以外に、特に記憶にありませんね。」


山中
 
待てよ。あそこでの会談は……(と深く回顧する様子の後で)ああ、あの会談では特に何もありません。時期が時期だけに周囲が意味深と受け取っても、あれは全くの儀礼的なもので4者だけの単なる晩餐会です。

神山
 しかし、あの会談の直後にランパート高等弁務官は嘉手納飛行場を発って帰国しています。

山中
 そうです彼はそういう身だから、あそこではもう何もありません。帰国の時間を待っているようなものです。

神山
 屋良主席の方から弁務官に対して何かおっしゃったことはありませんか。

山中
 儀礼的な話以外には特に記憶にありませんね。ただ屋良主席は時間(復帰の)をだいぶ気にしている様子でした。

神山
 では儀礼的な晩餐会であったあの席でランパート弁務官は皆さんに最後に何と言われたか、晩餐会の余談の中からでも結構です。ランパートは沖縄に着任した際に「自分は最後の高等弁務官であることに徹する。」とのコメントも発表しています。離任するときにはそれなりの感想があったと思います。

山中
 そうですね。あの時、彼は「本国へ帰ったら教育者にでもなりたいなあ。」とポツリと洩らしていたと思います。飛び立つ身だから、これだけでも彼の感想は充分です。(山中は多くは語りたくない様子)

神山
 
解りました。沖縄が数時間後に復帰するとはいえ、彼はその瞬間までは、まだまだ現として沖縄支配の最高責任者であり、公に多くは語れない立場にあったことはよく理解できます。人間は一つの仕事を成し終えた時、誰でも次の身の振り方を考えるものです。ところで実際のところ、山中先生にはいろいろと個人的な身の上のことも話されていたと聞きます。そこら辺についてはいかがですか、お話頂ければ幸いです。

山中
 彼の行動は常に最後の高等弁務官であることに徹しながら、一面は又帰国後の身の上のことも頭の中では考えていたようです。

神山
 それはどういうことでしょう。

山中
 彼は「これで軍人としての最後の務めを終え、そして明日から第二の人生を歩むについてどうか山中の意見も聞かせてほしい。いろいろとアドバイスを頼む。」と言われた。
私は「結構です。しかし何故そんな事を言うのか。」と聞いたら「貴方とこうして2年間も仕事を共にして来て、山中という男からはいろいろ学びたいことが沢山ある。」と彼は言う。「これも何故か。」と聞き返したら「貴方には沖縄県民から熱狂的な信頼がある、アメリカの兵隊でさえ貴方には感動している。貴方が持っている、この不思議な力を是非、私にも学ばせてほしい。帰国して教育者になりたい自分は、人生について、学ぶことから始めたいと思う。」と偉い真剣な顔面でこう話された。

神山
 そこで山中先生は。

山中
 (笑う)この年になって今さら学ぶとか教育者になるとか、いったい何があるんですか。と一笑に付しても彼は真面目に問いかけてくるんです。最後には「これからもいろいろ語り合いたいのでアメリカにも是非来て下さい。」と盛んに言っていましたね。結局、彼は帰国後にボストンの大学で副学長に就任しています。


神山
 前にランパート高等弁務官は教育畑の出身と聞いていましたが、やっぱり最終的にはその道を選んだんですね。

山中
 彼はそうです。前は陸軍士官学校の校長です。第二の人生としては、教育者の方が彼には無難でしょう。


神山
 ご承知の通り復帰前までは一定区切りで次々と高等弁務官が沖縄に着任しています。中でも最も印象深いのは、あの強権のキャラウエイ高等弁務官と最後のランパート高等弁務官です。どちらかと言うと前者は強権、後者は温厚の人柄であり、両者は実に対照的であったと思います。


 あのキャラウェイ高等弁務官などは常に強権を発動して、徹底且つ圧力的に沖縄の植民強化を企てています。
 これに対して、ランパート高等弁務官は、沖縄の復帰準備、いや正確には米国の沖縄支配の総整理役を見事に演じ切ったと思います。彼の力量によっても沖縄支配の総整理が極めて順調であったことが言えると思います。
 こういう視点からするとランパート高等弁務官は、ある意味では、沖縄復帰の貢献者の一人であり、県民の間からも歴代の弁務官に比較して高い評価を受けています。


山中
 ほんとに復帰の仕事で相手側(米国)の分野を誠心誠意よくやってくれたと思います。


神山
ところで、その後ランパート高等弁務官との交流はご座いますか。


栄誉礼に泣くランパート高等弁務官

山中
 一度は彼の大学に招かれて行っています。ランパートは、財・官・民・学の人脈を活かして実に幅広い活躍をしています。また、その頃、週一回はワシントンに出向き、国防長官に戦略問題で提言もされていると話していました。



ジェームス・B・ランパート

神山
 なる程。それからその後でしようか、復帰後に一度だけ来日もされていますね。


山中
 そうです。それは私が返礼のために招いたもので、ちょうど私が防衛庁長官の頃です。防衛庁では特にその時は栄誉礼も行っています。


神山
 しかし、栄誉礼は。


山中
 そうそう。普通なら彼はそれに該当しません。
ご承知の通り、防衛庁の規則の中で栄誉礼の出来る人はちゃんと誰々と書かれています。ランパートはそれに当てはまらない。彼もそのことはよく承知していました。
 しかし、栄誉礼に関する規則を注意深く読んでみると栄誉礼の出来る人は、「その他、防衛長官が重要と認めたる者」と書いてあるので私はその規則の「その他」の部分をランパートに当てはめた訳です。


神山
 それは正に山中防衛長官のご高配の賜物ですね。ランパート高等弁務官にとっては文字通りの栄誉礼になったと思います。


山中
 それはもうランパートは私にとっても、日本政府にとっても「重要」そのものでしよう。沖縄の復帰準備であれだけの仕事を成し遂 げた男だから重要以外の何者でもない。従って、「長官である私が栄誉礼を命じる」と言う訳で。
あの時は、誰にも文句を言わせません。当然のことです。それで防衛庁では、立派な栄誉礼を行っています。


神山
 感無量です。昔のランパート高等弁務官の姿が想い出されます。


山中
 彼は、栄誉礼が終わって無量の気持ちで、とうとう長官室で立ったまま泣き出しましたよ。びつくりして、「どうしたか。」と聞いたら「いや、自分には日本の自衛隊の栄誉礼を受けるとは夢にも思っていなかった。アメリカでは自分が亡くなってから上官であった自分に栄誉礼があること、それは知っていた。しかし、生きている間にしかも日本の防衛庁から、正規の栄誉礼を受けたこの喜びは軍人として、終生忘れることの出来ない最高の喜びである。」と彼は実にしやくり上げて泣いたのです。


神山
 ランパート弁務官の人柄がよく解るような気がします。
 それから、あの時行われた栄誉礼はどの級に値しますか。どの栄誉礼でもいかなる〝接待〟にも勝ると思いますが。


山中
 それは国防長官と同じ級です。


神山
 分りました。それではそこら辺でランパート高等弁務官の話はこれで終わり、話題は更に先に進めます。


公開されなかった法案「犯罪の継続問題」

神山
 さて、山中先生は復帰時の沖縄担当大臣として、沖縄国会でも大変に尽力されました。ところで、あの沖縄国会で審議された数多くの法律案のなかに「犯罪の継続問題」があります。すなわち、沖縄人が米軍人に対して犯した罪を復帰時点でどう扱うかという問題です。
 この問題には、沖縄県民が大いに関心を抱いていたと思います。ところが、この法律に限って審議の過程で、ほとんど公にされることなく確か復帰直後にその内容が発表されたと記憶しています。
復帰史の中でも大変重要なプロセスです。その内幕を語っていただきたいと思います。


山中
 確か、沖縄関連の法案を600本余りを成立させましたが、その中でも今、貴方が言われた法律には最初から最後まで本当に苦労しました。私の頭の中にも今、尚と強く焼き付いています。当然、皆さんも注目されたことでしよう。


神山
 事前公開がなかったことは米国との調整が原因でしようか。


山中
 もう米国と調整するようなことはしません。沖縄が日本に帰って来たら、日本の国の問題ですから法律は日本が勝手に作ります。と言うことです。


神山
 しかし、現にあの法律に限って、国会での質疑応答の公開もなく復帰の日にその全容が公表されるなどと他の法律とは明らかに模様が異なっています。


山中
 問題は、沖縄がアメリカの裁判制度をとっていたことです。
 向う(米国)はニ審制であり、われわれ(日本)は三審制です。現在、裁判中のものを、復帰の時点でどの(地方、高等、最高)裁判所で裁くかということです。とはあれ人権の基本に関わる事でしょう。それは大変な問題です。
 結局は総合的な角度から、法律案は充分に検討されその文案もきちっと出来上がっていた。ところが復帰の日まではその内容を明らかにする訳にはいかない。
 何故か。それは「アメリカ軍人属に関する日本(沖縄)人の犯罪は復帰の時点でそれを無効にする。無かったことにする。」という内容の法律案であったからです。


神山
 分かりました。それで野党への対応はどうされましたか。


山中
 沖縄国会は、復帰の1年前から開かれたでしよう。
そこでは、この問題に関する質問は例え野党と言えども「質問するな」と言って協力させましたよ。それが公にでもなれば大変な騒ぎです。「イヨーシ、アメリカ人は、幾ら殴っても蹴っ飛ばしても、火を付けても何をしても復帰の日にはそれが無罪になる」そうと思ったら、あのコザ騒動どころではない。沖縄県全土が大動乱になることが明らかです。
 だからこそあの法律には、神経を使いました。野党の対応どころではありません。閣議にも復帰の前日(14日)に報告、その場で承認、そして翌日発表という実に苦肉の策です。


神山
 確かにあの頃は反米感情が強く、「コノヤロウーアメリカ」という県民共通の感情があったと思います。罪が無罪となれば、不心得者は大暴れしたに違いありません。納得です。
 それでは、定時も大幅に超過しましたので最後に次の2点について山中先生の所感を伺います。先ず、沖縄返還の佐藤総理に ついてです。


 ご承知の通り、我が国はあの太平洋戦争に敗れ、佐藤総理が師と仰いだ吉田茂総理のサンフランシスコ講和条約第3条によって、沖縄は見事に祖国日本から切り離されました。
 あれから27年間、沖縄県民は異民族の支配に喘ぎ、その苦しみを強いられている時、今度は吉田学校の門下生であり、優等生と言われたあの佐藤総理の手によって無血で沖縄返還が実現されています。〝吉田が切り離し、佐藤がそれを取り戻した〟それは正に政治小説にも勝る何かの因縁を感じますし、また両総理は歴代総理の中で一位とニ位の長期政権を保持しています。
 そこで、あの佐藤総理とこの頃の総理大臣との間に相違点あるとすれば、それはどういう点か一つだけに絞ってお話しいただければ幸いです。


孫悟空のように佐藤総理の手のひらで


山中「孫悟空の手の平で」

山中
 
流血で失った領土を無血で取り戻したこと、このような政治的な、大事業を成し遂げた総理は他にはいません。これからも出ないでしょう。その大事事業を遂行するに当たって一人の青年政治家、まだ48歳そこそこの男に「お前に一任する」と任された。これは大変なことです。普通の政治家や、この頃の総理はそんなこと心配でとても出来ません。
又佐藤総理の前にも後にもあんなに大きな仕事はありません。それを2年8カ月余、沖縄が無事に戻ってくるまで、「山中お前に任せる」という、そこが、今頃の総理と佐藤総理の大きな相違点です。あれだけの大仕事は、任される人より任せる人がはるかに偉大です。いわば孫悟空が金棒に乗って一日中、空を飛んでいたら、そこに5本の柱があったので降りて休んだところ、そこはお釈迦様の五本の指であったという。
つまり、あの孫悟空は一日中大空を飛んでいると思ったら、結局はお釈迦様の手の平内しか飛んでいなかったという話がありますが、ちょうどその話と同じ感じです。私は、佐藤総理に大きく任されて、そして自由にやらされたけども、その自由は結局、佐藤栄作という巨人の手の平の中であの孫悟空のように自由に飛び回っていたということです。
それでも現に95万余の日本人が住んでいる領土問題を一人の青年政治家に一任して、そして実際に仕事をやらせたこと、それは宰相として偉大だと思います。

神山
 
前に、ある外国の特派員が「日本の総理も佐藤栄作まで」と発言したことがあります。裏を返せば、その後は日本に総理らしい総理はいないということになります。小さな言葉のようですが、大きな意味を持っていると思います。
さて話題も実に広範囲に及び、時間も大幅に超過しています。
 では、最後に山中先生の所見を伺います。沖縄が1972年に復帰していよいよ明年は20年を迎えます。現在沖縄では第ニ次振計の終了に伴い、その総括と第三次振計の計画が練られています。我が国唯一の離島県であるが故にそれも誠に重要なことです。
 しかし、復帰20年を超え、これからも過去の20年同様に政府の特例に甘えようとする姿勢があるとすれば、それにはある種の違和感を覚えます。そろそろ沖縄県も戦後45年、復帰20年を境に堂々と自立の姿勢を確立し。これからは微力ながらも沖縄県が国家のために何が出来るか何をしなければならないか、また沖縄県民が近隣諸国のために何が出来るのかも考えなければならない時期が到来していると思います。
 そこで、とりわけ沖縄県と鹿児島県が共同して近隣諸国に貢献できることがあるとすれば、それは何でしょうか。山中先生の所見として伺っておきたいと思います。直観的な発想で結構です。


沖縄県と鹿児島県が世界に貢献するには

山中
 南太平洋の島々、あそこら辺は多くの島が無医地区です。医者不足で住民が大変に苦しんでいます。日本では、医者が余っているから募集定員を20 %減らすようなことをやっているが、そんなことをしないで日本の若い医者をどんどんミクロネシアを含む南太平洋の国々に派遣するべきです。
 琉球大学と鹿児島大学の医学部が中心となり両県が共同して、 その拠点となるべきです。
 そうすれば、日本も南の国々から大いに感謝されるし、そうすることによって、両県は、日本の為にも貢献したことになります。


神山
 なる程。大した準備期間もお金も大して費やすことなく近隣諸国への手っ取り早い貢献策といえば、やはり無医地区への医者派遣と言うことになりますか。ともあれ、両県では、県政運営を司どる上で只今の山中先生のご提案も視野に入れていただければ、幸いに存じます。
 それでは山中先生、今日はご多忙中に本誌の企画にご賛同を賜り誠にありがとうございました。先生のご高配に深く感謝いたします。今後とも本誌『沖縄世論』へのご支援ご協力をよろしくお願いいたします。お昼の食事も大変にご馳走になりました。今度、又東京の山中事務所にでも伺いさせて頂きます。


山中
 
どうぞいらっしゃってください、次は東京辺りでお会いしましょう。

ー完ー

原則毎月10日定期更新。但し、次回(第110号)は企画調整と夏季休暇の為に8月10日(水)の更新といたします。ご了承ください。