神山吉光が吠える

<第70回>年頭所感

2017.12.28




2018年 元旦更新 〈第70回〉




新年あけまして       
  おめでとうございます



 2018年(平成30年)。輝く新年を迎えるに当たり、皆様方のご多幸を謹んでご祈念申し上げます。
 どうぞ本年も「神山吉光が吠える」を、ご愛読賜りますようお願い申し上げます。

                       ◇       ◇

       年頭所感

天皇陛下と沖縄

 本年は改元前年。平成時代もいよいよ明年4月に幕を閉じる。平成の30年間、天皇、皇后両陛下は、内外を巡り行動することで喜びや悲しみを分かち合う新たな象徴像を築かれた。戦争の傷跡にも真正面から向き合われた。

 特に沖縄との関係だ。2013年4月28日「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が開かれた。

 同式典は1952年の4月28日、いわゆる日本が独立を記念するサンフランシスコ講和条約が発効したことから、主権の大切さを考えるために政府が主催したものだ。



 両陛下もご臨席なされたが、陛下にはある種の戸惑いがあったようだ。宮内庁によると、当時、陛下は庁内の各参与に意見を求めて「サンフランシスコ講和条約当時は、沖縄はまだ主権が回復してなかったのに・・」と、疑問を呈されたという。



サンフランシスコ講和条約によって、沖縄は米国の占領が続き、沖縄が本土復帰したのは72年だった。両陛下は「本土防衛」のために多大な犠牲を払った沖縄に、皇太子時代から10回も訪れて慰問された。


平成天皇が心底からの沖縄思いであられた証である。改元前年の年頭に当り平成天皇の沖縄思いが新天皇にも踏襲されることを願う。


安倍内閣の正念場

 安倍内閣は、2012年12月の第二次内閣の発足から丸5年を超えた。その間、安倍首相は人事で安定性を重視し、政権を揺るがすような失敗は極力避けた。そして、その安定した政権運営で、「安倍一強」の基盤を着々と固めてきたが、今後を見渡した時、最大の課題はなんといっても悲願の憲法改正であろう。

 第一次安倍内閣時代(2006年9月~07年9月)に成立した改憲手続きを定める「国民投票法」のことを、安倍首相は憲法改正に渡るいわゆる「橋」であると称した。確かにそのように思える。

 政権が発足した5年間は、参院で過半数の議席を得てなかった。ところが、13年、16年の参院選では連勝し、14年、17年の衆院選でも圧勝することで、改憲発議に必要な「衆院3分の2」の議席を確保し、憲法改正を政治課題に乗せることに成功した。

 すなわち首相は、先の衆院選の大勝利によって渡る橋に大きな足音を轟かせたのである。

 しかし、新年から渡る橋の先を見渡した時、現在は比較的に穏やかではあるが、改憲問題で野党よりも政権内の公明党が大事なところで、渡る橋の妨げになりはしないのか。つまり〝敵前逃亡〟だ。


 また、憲法改正の発議はしたものの、公明党・創価学会が国民投票の段階になって、本当に選挙のように熱心に動いてくれるのかどうか、大いに気になるところだ。


 安倍首相は、第二次内閣の発足当初に、改憲の発議要件を緩和するために憲法9条の「先行改正」を目論だが、思うように政権内の同意と国民の理解が広まらず無念にも取り下げた経緯がある。

 その試練を受けて、今度は9条改正による自衛隊の明記に照準を当てつつ与野党の意向も踏まえながら、首相は悲願の憲法改正で「正面突破」を図ろうとしている。

〝いざ鎌倉〟ある局面で首相は、泣いて馬謖を斬る決断も必要だろう。安倍内閣にとって、憲法改正問題はどうやら新年から向こう3年間程度が正念場と言えそうだ。

<完>


      ーーーーーーーーー<神山吉光が吠える・特別企画>ーーーーーーーーーーー

初代沖縄開発庁長官/山中貞則 いやあ、もうお昼の時間です。どうですそこで一寸中断して一緒に食事でもしましょうや。

編者/神山吉光 では一時中断ということで…。

昼食時の四方山話                      


山中 (秘書に食事の支度を指示しながら)神山さんは、豆腐はいけますかな。

神山 私は豆腐とそばが大好物です。薩摩豆腐なら尚結構でございます。

山中 近くに立派なおいしい豆腐屋さんがあるので、いつも出前でとっているのだが今日の味はどうかな。さあ、どうぞ召しあがってください。

神山 ありがとうございます。ではごちそうにあずかります。

山中 食事の間だけでも雑談ということにしましょう。(笑う)いやあ、それにしても屋良先生に勲章をやるのにはハタと難儀をしましたよ。(笑う)


神山 いえ。どういう訳ですか。


山中 だって貴方、本人が「もらわない」と言うのだから困りものです。「屋良先生、それは何故ですか」と聞いたら「自分がもらったら、自分を支持している革新の諸君が承知しない。」とおっしゃるんです。「屋良先生それは革新の間違いではないですか。勲章というのは何も保守党政府から頂くものではない。陛下が下さるものなんです。先生の立場はそれでいいかもしれない、しかし先生が勲章を拒否することによって、後の人も前例によって、今後は受けにくくなりますよ。先生(屋良)には他人まで前例を負わせる資格があるんですか。それはないでしょう。先生、自分の立場だけで物を言ったら困りますよ。」といくら話しても応じてくれない。(笑う)とうとうしまいには、奥さんにまで「おヨシさん、もうなんとかしてよう。」と電話を入れたらどうにか納得。いやあ、あの屋良さんを解きほぐして勲章をやるのに偉い苦労をしましたよ。

神山 そんなことがあったとは誰も知りません。それは初耳です。

山中 それからもう一人、昔、西銘君(前知事)らが門下生となって師と仰いでいたあの人、ほら前に主席もされた人よ。(しきりに名前を思い出そうと)


神山 西銘さんが師と仰いだ人ですか(考える)ああその方は当間重剛先生です。





山中 うん。その当間重剛先生が晩年の頃、病に重しと言うので早速見舞いに出向こうとしたら、「今の当間重剛は山中さんに、お会いする訳に参らない。」という。どうしてかと聞いたら「山中の頭の中には昔の当間重剛のさっそうたれし姿や言動が残っている。それをそのまま想い出として胸にしまっておいてほしい。

病床の当間重剛の姿を山中には見てもらいたくない。」と言われた。

「では見舞金だけは受け取っておきなさい。」と言ったら、あの屋良さんの勲章とは違って「見舞金なら大いに結構。できるだけ多い方がいいので沢山送ってほしい。」と大笑いしたことがある。(両者大笑い)



神山 当間先生は政治家として、沖縄政界では象徴的な存在で、政界を勇退されてからも体協の会長をされるなど広範囲から沖縄の復興に尽力された郷土の大先輩です。


山中 その通りです。当間先生が沖縄の体育協会に自分の土地(現在の奥武山の体協会館の敷地)を提供されたので私は、財産を公共に提供するという当間先生の心意気に感銘してそれに応えるために、建物(体協会館)の建設資金全額を国庫補助で充てることにした。ご存知の通り、そんなことは他府県にないことです。「それが当間先生へのお礼の証です。」と言ったら先生は大変に喜ばれました。いやあ、あの在りし日の当間重剛先生。実にさっそうたれし姿でありました。昨日のように思い出しますなあ。ところで沖縄の八重山の話ですが、神山さんは行かれたことがありますか。

神山 確か、八重山には二度程行っていると思います。そこには宮良殿内という水準の高い文化財があったことを記憶しています。

山中 そうそう宮良殿内のある石垣島近くの竹富(黒島)あそこには「山中の家」という別荘があります。島の人々が名誉町民の山中が来る時に泊めようと勝手に建てた。鉄筋、赤瓦、二階建ての家です。(まるで自分の生まれ島のことのように語る)


神山
 今時の政治家が聞いたら実に羨ましい話です。

山中 いやいや外からも「別荘用地を提供するからどうぞ立ち寄って下さい」という話は沢山きたんですよ。勝連村では議会で協議までしていたと思いますよ。私は「それは結構でございます。心よくいただきます。ありがとうございます。しかし、別荘用地はそのまま村に寄付させていただきます。」とお断りしたら、そのことが、今では笑い話になっています。(笑う)


神山 従って、向う(勝連村役場)には山中先生の大型写真が飾られているんですね。さて、まだまだ余談をしていたいのですがそろそろこの辺から本談へ移らせていただきます。

山中 どうぞ結構です。進めましょう。

復帰前夜の四者会談

神山 沖縄が復帰する昭和四十七年の五月十四日、その日は復帰の前日です。その日の夜七時から山中先生をはじめ、高瀬大使、そして屋良主席の三人はランパート高等弁務官に招かれ瑞慶覧の将校クラブで晩餐会を行っています。それは晩餐会というよりも、米軍支配下の最後の四者会談であったと解する方が正確であると思います。

正にあの会談は復帰の時間が刻一刻と迫る中で行われており、名実共に歴史的な四者会談であったことに間違いありません。さて、あそこ(四者会談)で何が話し合われ、そして何が決められたか、当時のマスコミもその会談があったことを事前には知らなかったようです。






山中 待てよ。あそこでの会談は……(と深く回顧する様子の後で)ああ、あの会談では特に何もありません。時期が時期だけに周囲が意味深と受け取っても、あれは全くの儀礼的なもので四者だけの単なる晩餐会です。

神山 しかし、あの会談の直後にランパート高等弁務官は嘉手納飛行場を発って帰国しています。

山中 そうです彼はそういう身だから、あそこではもう何もありません。帰国の時間を待っているようなものです。

神山 屋良主席の方から弁務官に対して何かおっしゃったことはありませんか。


山中 儀礼的な話以外には特に記憶にありませんね。ただ屋良主席は時間(復帰の)をだいぶ気にしている様子でした。



神山
 では儀礼的な晩餐会であったあの席でランパート弁務官は皆さんに最後に何と言われたか、晩餐会の余談の中からでも結構です。ランパートは沖縄に着任した際に「自分は最後の高等弁務官であることに徹する。」とのコメントも発表しています。離任するときにはそれなりの感想があったと思います。


山中 そうですね。あの時、彼は「本国へ帰ったら教育者にでもなりたいなあ。」とポツリと洩らしていたと思います。飛び立つ身だから、これだけでも彼の感想は充分です。(余談でも多くは語りたくない様子)


神山 解りました。沖縄が数時間後に復帰するとはいえ、彼はその瞬間までは、まだまだ現として沖縄支配の最高責任者であり、公に多くは語れない立場にあったことはよく理解できます。人間は一つの仕事を成し終えた時、誰でも次の身の振り方を考えるものです。ところで実際のところ、山中先生にはいろいろと個人的な身の上のことも話されていたと聞きます。そこら辺についてはいかがですか、お話頂ければ幸いです。


山中 彼の行動は常に最後の高等弁務官であることに徹しながら、一面は又帰国後の身の上のことも頭の中では考えていたようです。


神山
 それはどういうことでしょう。


山中 彼は「これで軍人としての最後の務めを終え、そして明日から第二の人生を歩むについてどうか山中の意見も聞かせてほしい。いろいろとアドバイスを頼む。」と言われた。
私は「結構です。しかし何故そんな事を言うのか。」と聞いたら「貴方とこうして二年間も仕事を共にして来て、山中という男からはいろいろ学びたいことが沢山ある。」彼は言う。「これも何故か。」と聞き返したら「貴方には沖縄県民から熱狂的な信頼がある、アメリカの兵隊でさえ貴方には感動している。貴方が持っている、この不思議な力を是非、私にも学ばせてほしい。帰国して教育者になりたい自分は、人生について、学ぶことから始めたいと思う。」と偉い真剣な顔面でこう話された。

神山 そこで山中先生は。

山中 (笑う)この年になって今さら学ぶとか教育者になるとか、いったい何があるんですか。と一笑に付しても彼は真面目に問いかけてくるんです。最後には「これからもいろいろ語り合いたいのでアメリカにも是非来て下さい。」と盛んに言っていましたね。結局、彼は帰国後にボストンの大学で副学長に就任しています。



神山
 ランパート高等弁務官は教育畑の出身と聞いています。やっぱり最終的にはその道を選んだんですね。



山中
 彼はそうです。前は陸軍士官学校の校長です。第二の人生としては、教育者の方が彼には無難でしょう。



神山
 ご承知の通り復帰前までは一定区切りで次々と高等弁務官が沖縄に着任しています。中でも最も印象深いのは、あの強権のキャラウエイ高等弁務官と最後のランパート高等弁務官です。どちらかと言うと前者は強権、後者は温厚の人柄であり、両者は実に対照的であったと思います。






山中 
待てよ。あそこでの会談は……(と深く回顧する様子の後で)ああ、あの会談では特に何もありません。時期が時期だけに周囲が意味深と受け取っても、あれは全くの儀礼的なもので四者だけの単なる晩餐会です。



神山
 しかし、あの会談の直後にランパート高等弁務官は嘉手納飛行場を発って帰国しています。



山中
 そうです彼はそういう身だから、あそこではもう何もありません。帰国の時間を待っているようなものです。


神山 屋良主席の方から弁務官に対して何かおっしゃったことはありませんか。

山中 儀礼的な話以外には特に記憶にありませんね。ただ屋良主席は時間(復帰の)をだいぶ気にしている様子でした。

神山 では儀礼的な晩餐会であったあの席でランパート弁務官は皆さんに最後に何と言われたか、晩餐会の余談の中からでも結構です。ランパートは沖縄に着任した際に「自分は最後の高等弁務官であることに徹する。」とのコメントも発表しています。離任するときにはそれなりの感想があったと思います。

山中 そうですね。あの時、彼は「本国へ帰ったら教育者にでもなりたいなあ。」とポツリと洩らしていたと思います。飛び立つ身だから、これだけでも彼の感想は充分です。(余談でも多くは語りたくない様子)

神山 解りました。沖縄が数時間後に復帰するとはいえ、彼はその瞬間までは、まだまだ現として沖縄支配の最高責任者であり、公に多くは語れない立場にあったことはよく理解できます。人間は一つの仕事を成し終えた時、誰でも次の身の振り方を考えるものです。ところで実際のところ、山中先生にはいろいろと個人的な身の上のことも話されていたと聞きます。そこら辺についてはいかがですか、お話頂ければ幸いです。


山中 彼の行動は常に最後の高等弁務官であることに徹しながら、一面は又帰国後の身の上のことも頭の中では考えていたようです。


神山
 それはどういうことでしょう。

山中 彼は「これで軍人としての最後の務めを終え、そして明日から第二の人生を歩むについてどうか山中の意見も聞かせてほしい。いろいろとアドバイスを頼む。」と言われた。

私は「結構です。しかし何故そんな事を言うのか。」と聞いたら「貴方とこうして二年間も仕事を共にして来て、山中という男からはいろいろ学びたいことが沢山ある。」彼は言う。「これも何故か。」と聞き返したら「貴方には沖縄県民から熱狂的な信頼がある、アメリカの兵隊でさえ貴方には感動している。貴方が持っている、この不思議な力を是非、私にも学ばせてほしい。帰国して教育者になりたい自分は、人生について、学ぶことから始めたいと思う。」と偉い真剣な顔面でこう話された。

神山 そこで山中先生は。

山中 (笑う)この年になって今さら学ぶとか教育者になるとか、いったい何があるんですか。と一笑に付しても彼は真面目に問いかけてくるんです。最後には「これからもいろいろ語り合いたいのでアメリカにも是非来て下さい。」と盛んに言っていましたね。結局、彼は帰国後にボストンの大学で副学長に就任しています。

神山 ランパート高等弁務官は教育畑の出身と聞いています。やっぱり最終的にはその道を選んだんですね。



山中
 彼はそうです。前は陸軍士官学校の校長です。第二の人生としては、教育者の方が彼には無難でしょう。



神山
 ご承知の通り復帰前までは一定区切りで次々と高等弁務官が沖縄に着任しています。中でも最も印象深いのは、あの強権のキャラウエイ高等弁務官と最後のランパート高等弁務官です。どちらかと言うと前者は強権、後者は温厚の人柄であり、両者は実に対照的であったと思います。






孫悟空のように佐藤総理の手のひらで

山中 流血で失った領土を無血で取り戻したこと、このような政治的な、大事業を成し遂げた総理は他にはいません。これからも出ないでしょう。その大事事業を遂行するに当たって一人の青年政治家、まだ四十八歳そこそこの男に「お前に一任する」と任された。これは大変なことです。

普通の政治家や、この頃の総理はそんなこと心配でとても出来ません。

又佐藤総理の前にも後にもあんなに大きな仕事はありません。それを二年八カ月余、沖縄が無事に戻ってくるまで、「山中お前に任せる」という、そこが、今頃の総理と佐藤総理の大きな相違点です。あれだけの大仕事は、任されるより任せる方がはるかに偉大です。いわば孫悟空が金棒に乗って一日中、空を飛んでいたら、そこに五本の柱があったので降りて休んだところ、そこはお釈迦様の五本の指であったという。


つまり、あの孫悟空は一日中大空を飛んでいると思ったら結局はお釈迦様の手の平内しか飛んでいなかったという話がありますが、ちょうどその話と同じ感じです。私は、佐藤総理に大きく任されて、そして自由にやらされたけども、その自由は結局、佐藤栄作という巨人の手の平の中であの孫悟空のように自由に飛び回っていたということです。

それでも現に九十五万余の日本人が住んでいる領土問題を一人の青年政治家に一任して、そして実際に仕事をやらせたこと、それは宰相として偉大だと思います。

神山 前に、ある外国の特派員が「日本の総理も佐藤栄作まで」と発言したことがあります。裏を返せば、その後は日本に総理らしい総理はいないということになります。小さな言葉のようですが、大きな意味を持っていると思います。さて話題も実に広範囲に及び、時間も大幅に超過しています。

今日は、ご多忙中、本誌の企画にご賛同を賜り誠にありがとうございました。今後とも本誌『沖縄世論』へのご支援をよろしくお願いいたします。今度、又東京の山中事務所にでも伺います。

山中 どうぞいらっしゃってください、次は東京辺りでお会いしましょう。

ー完ー





ーーーーーーーーー<次号、現代公論のご案内>ーーーーーーーーーーー



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