神山吉光が吠える

<第77回>沖縄県知事選挙

2018.09.18




2018年 9月18日更新〈第77回〉


後継者遺言の不可解な「録音テープ」

 4年前に沖縄県民の圧倒的な支持により勢いよくスタートした翁長県政は、知事の急逝によって3年8ヶ月で無情にも終幕となった。
知事の体調不良による辞任ではなく、死去による繰上げ選挙は知事の重い病気が発覚するまでは、誰もが予想しなかったであろう。
 今になっては過の県民大会で「グスーヨー、チューウガマビラ、マキテーナイビランドー」と県民に呼び掛けた翁長知事のあの言葉と、そして、亡くなる直前に「撤回」の手続きを表明した痛々しいまでの記者会見が偲ばれる。
 現段階では、翁長県政全体の評価はいかんにも下し難いが、さしずめ、沖縄の米軍基地問題を内外に発信したことは翁長知事の筆頭の功績と言えよう。
 ところが、翁長知事は発病から死去まで4ヶ月の期間があったにも拘わらず、辛うじて辺野古埋め立て承認「撤回」の手続は表明したものの、最も重要な後継者の育成とその問題に触れることな く旅立ってしまった。翁長氏が後継者を名指しした「録音テープ」が 存在するというが、それはあくまでも不可解な未確認情報である。
 初歩的なことだが、その「録音テープ」の声が本当に翁長氏本人の声なのか。また、テープの録音は翁長知事の本意によるものなのか。誰かが意図的に知事の雑談を黙って録音されたものではないのか。全く不明である。

問われる知事後継候補の正当性

 録音の中に玉城デニー氏と呉屋守將氏の名前が出てくるというが、その両氏の名前が出てくる前後の会話がどのようになっているのか。果して後継者の指名に結び付けられるような内容になっているのかどうか、そこら辺を明かさない限り、疑心暗鬼は増す増す深まるばかりである。
 オール沖縄側が玉城氏を翁長知事の後継候補であるとするならば、せめて、その決め手となった「録音テープ」を公開すべきであったが、どういう訳かその公開は関係者によって未だに頑に拒まれたままである。
 そもそも、その「音声テープ」の語源を聞いたのはオール沖縄の中で新里米吉議長唯1人で、後継者として名指しされた玉城氏本人にすらも聞かせて無いというのだから実に驚きである。
 仮に、玉城氏が後継者であるとしてもその運び方や伝達の仕方そのものは、決して翁長知事の遺志ではなかったのではないかと筆者は思う。
一時はオール沖縄勢力の「会派おきなわ」も不満を露にしていたが、告示を目前にしてどうにか玉城候補で丸く収まったようである。
 玉城氏は、翁長知事の後継者という正当性を堂々と主張するためにも「録音テープ」を自ら確認すべきであったがそうしなかった。これで本当に正統な後継者候補と云えるだろうか。そうだとすれば、なんと気持ちの晴れない後継者だろう。
 沖縄二紙がこの問題で敢えて深入りしなかったのも不思議である。玉城候補が翁長知事の後継者と公言するならば、オール沖縄側は、あの幻の「録音テープ」を速やかに公開して欲しいものだ。

 翁長知事の死去に伴う沖縄県知事選挙には4人の届け出があり、だが、事実上は自民、公明、維新、希望の4党が推薦する前宜野湾市長の佐喜真淳氏(54歳)と「オール沖縄」勢力が全面支援する前衆議院議院の玉城デニー氏(58歳)の一騎討ちだ。
 先ず、両候補の比較を深めるために両氏の横顔と立候補の背景を御浚いしておこう。

佐喜真、玉城両候補の略歴と背景を見る
 佐喜真氏は、「世界一危険な米軍基地」とされる普天間飛行場を抱える宜野湾市生まれ。大学卒業後、フランス南西部ボルドーに滞在し、空手の普及や指導に当たった。市議会議長在職中に急逝した父の後を継ぎ、2001年に宜野湾市議に初当選。以来、市議と県議に2回ずつ当選し、12年からは宜野湾市長に就任。16年に再選された。市長就任後は普天間飛行場の危険性除去や早期返還を訴えるため、3度に渡り訪米した。同飛行場の名護市辺野古移設反対を唱えて政権と対立した翁長雄志知事とは対照的に、菅義偉官房長官ら政府高官とも繰り返し面談し、基地負担軽減を強く求めた。
 沖縄県内では、自他共に認める保守側のホープ的存在。当初、県政野党・保守側では沖縄コンベンションビューローの元会長安里繁信氏も立候補を表明し、一時はその勢いも増していたが、保守側の伝統的な知恵が働いて佐喜真氏に一本化された。自民党本部や菅官房長官も佐喜真氏を推していたという、自然の流れである。

 一方、玉城氏は、沖縄本島中部のうるま市出身。駐留兵士だった米国人の父と、日本人の母の間に生まれた。子供の頃は、外見の違いからいじめに遇った。そんな自身を「戦後の沖縄の象徴のような存在だ」と語る。東京の福祉専門学校を卒業後、沖縄に戻り、老人福祉センターの臨時職員や会社員を経て、タレントの道へ。地元のラジオパーソナリティーや結婚披露宴の司会者として活動し、軽妙な語り口が人気を博した。
 42歳で沖縄市議にトップ当選し、政界入り。2009年の政権交代選挙で衆院初当選を果たしたが、消費税増税を巡り所属していた民主党の方針に反して除名され、その後は自由党幹事長に就任。国会内では共産党と組んで野党共闘にも奔走した。
 翁長知事の死去後「オール沖縄」側の知事候補としては謝花副知事や城間那覇市長、金秀グループの呉屋会長など7人の顔触れが浮上したが、結局、翁長知事が亡くなる数日前に録音されたという例の後継者遺言の「録音テープ」によって、図らずも後継候補に名前すら挙がらなかった玉城氏が「オール沖縄」側の支持を得て立候補することになった。
 玉城氏にとっては、正に〃晴天の霹靂〃である。人生は概ね尊敬する人を目標に生きているとすれば、佐喜真氏の尊敬する人は「父」。対する玉城氏が尊敬する人は、あの「小沢一郎」のようである。(第78回は10月15日(月)に更新いたします。