

プロローグ
然る休日に何気無く留守中の新聞をめくっていると、「沖縄財界四天王共通点は『闘魂』」という見出しが目に留まった。それは沖縄県公安委員会委員長や名桜大学理事長、そしてオリオンビール副社長、NHK沖縄放送局長など豊富な経歴を持つ比嘉良雄氏が沖縄県経営者協会の総会で講師に招かれて、「沖縄経済の基礎を築いた財界四天王に学ぶ」と題した講演のいわゆる案内記事である。
なるほど、周知の通り比嘉氏は「四天王」を語る演題には最適の素晴らしい講師だ。そう思いつつ演題にも興味があったので早速、比嘉氏と経営協から資料を取り寄せて、原稿(メール)で講演の全容を読むことにした。
比嘉氏が講演で言う「財界四天王」とは、いわゆる沖縄の復帰前後に経済界で活躍した大城組社長 大城鎌吉氏、国場組社長 国場幸太郎氏、琉球セメント社長 宮城仁四郎氏、オリオンビール社長 具志堅宗精氏の四翁のことであり、いずれも故人ではあるが、しかし「四天王」の経営哲学その精神は現在も尚、絶えることなく沖縄経済の発展に大きく脈打っていることは、衆目が一致するところである。
沖縄の復帰前後に何らかの形で四天王の影響を受けた経済人、政界人そして文化人は多いだろう。
そこで、今回(第86回)は時事評論ではなく、大好評を博し、現在も話題を呼んでいる比嘉良雄氏の講演をノーカットで紹介しよう
(資料提供:沖縄県経営者協会)
はじめに
本日は「沖縄経済の基礎を築いた財界四天王に学ぶ」ということでお話させていただきます。
まずは、2018年1月4日付で琉球新報に掲載された「2016年度県内企業ランキング上位50社」の記事を紹介します。4位に日本トランスオーシャン航空、大城鎌吉さん。7位にオリオンビール、具志堅宗精さん。8位に那覇空港ビルディング。大城鎌吉さん。9位に國場組、國場幸太郎さん。14位に琉球セメント、宮城仁四郎さん。15位にザ・テラスホテルズ、國場幸太郎さん。四天王がお作りになった企業が厳然として上位を占めております。
具志堅宗精さんが亡くなられたのが昭和54年。最後に亡くなられた宮城仁四郎さんが平成9年。そろそろ20~40年経ちますが、それでもなお、沖縄経済に影響を与え続けています。
さて、本論に入りましょう。
第二次世界大戦が終わって、72年になりました。酸鼻を極めた沖縄戦も、歴史の彼方に追いやられています。
戦後の復興、経済振興に尽くされた方々は数多くいますが、その代表的経済人といえば、巷間、財界四天王と呼ばれた國場幸太郎、宮城仁四郎、大城鎌吉、具志堅宗精ではないかと思います。
その他、稲嶺一郎、松岡政保、仲田睦男、平田忠義、竹野寛才、竹内和三郎、嘉数昇、富原守保、湧川善三郎、古波津清昇、呉屋秀信ら、多士済々ですが、本日は、四天王を中心にお話をしたいと思います。
私は昭和11年生まれです。81歳です。明治、大正の方々は、ほとんど鬼籍に入りました。
大正生まれで御健在な方々は、嶺井政治さん、儀間文彰さん、中地昌平さんなど少なくなりました。
昭和のシングルの方々も第一線を退かれました。久手堅憲次さん、宮城宏光さんが6年、稲嶺惠一さんが8年、小禄邦男さんが10年です。
ですから、明治の先輩から直接・間接ご指導いただいたことを次代に伝える責務があると思い、本日の話になりました。
十分に伝えることはできないと思いますが、一端をご紹介して皆様のお役に立てればと存じます。
さて、年齢順に行きましょうか。いや、具志堅宗精氏が先でしょうか。私の直接の上司でしたので、最後にし、大城鎌吉氏から参ります。
大城鎌吉翁
明治30年12月20日生まれで、平成4年10月18日、94歳でお亡くなりになっています。大宜味村の生まれです。
12歳で母親を、15歳で父親を亡くし、丁稚奉公、学校の小使、役場の小使を経て、大工見習い、27歳で大城組を設立しています。大正9年の設立です。
当時、那覇には大金持ちがいました。「ヤマグシク」「新里カニコウ」です。
大城鎌吉翁は、自分史の中にこう記しています。
「私の一生で特筆すべきことは、新里カニコウと呼ばれた新里康正氏との出会いです。」
酒屋、砂糖委託商、土地、貸家業、個人金融もしていたと思います。「おい、ウフグシク(おい、大城)君は若いのに相当の仕事をしているようだが金はあるのか」と聞かれました。
「いや、運転資金で困っています。」と実状を話すと、「そうか、君は山原から出てきて財産はないようだが見どころがある。仕事を誠実によくやる。金は私が面倒を見る。必要な時に必要なだけ持って行きなさい。利息も銀行より安くしておく。」誠にもってありがたいことであったと述懐なさっています。
ファイナンスの心配がなくなり、大城鎌吉青年は鬼に金棒(?)になりました。
大城組を中心に、国際物産、琉映貿、港湾荷役業、デパート、南西航空(JTA)、那覇空港ターミナル、グランドキャッスル等、大扇会というコンチェルンを築き上げられました。
新里カニコウさんは、私が生まれた昭和11年、県下一の高納税者で、日本軍に戦闘機一機を寄贈したとの逸話もある人です。末裔は、沖縄市で新里酒造所を営んでいるはずです。
大城翁は、オリオンビールの創業期からの取締役で、オリオンビール名護工場、最初の工事請負者でもありました。
私は若い頃、印鑑をいただきによく伺いましたので、名前を覚えていただいた数少ない先輩の一人でした。
具志堅宗精翁が昭和54年に亡くなりましたので、代わりに私が南西航空の非常勤取締役になり、11年間謦咳に接しました。
エピソードを一つ。
或る年、南西航空の取締役会がありました。議題の一つに、関係官庁からの俗に言う天下りの案件がありました。
私は手をあげて「今、会社は厳しい時です。労働争議が紛糾、ストが続き、運行もままならず、その解決も自主的にはできず、第三者機関である労働委員会に依頼している状況です。
本件は既に内諾しているならば仕方ございませんが、社会の目も厳しいです。」と申し上げました。
取締役会は一瞬シーンとなりました。取締役会が終わり会社に帰ると、交換嬢が電話ありましたという。
「大城さんという方からでした。」
「どちらの大城さん。」と聞くと、
「わかりません。」という。
「男性?女性?」というと、
「男性です。」と。
「ダメじゃないか、対応もできないじゃないか。」と叱ると、
「すみません。威厳を感じ、どちらの大城さんですかと問えませんでした。」と言うのです。
しばらくして、また電話がかかってきました。受話器を取ると、「大城だがね。」という。
大城鎌吉会長自らの電話である。
「比嘉です。」というと、
「先の取締役会のあなたの発言、よかった。ありがとう。言いにくいことをよく言ってくれた。君達若者は、この意気で会社のために頑張ってくれよ。今日は、ありがとう。」 電話が切れました。
その一言のために、自ら二度も電話をくださりました。それから随分と目をかけていただいたように思えます。大城会長は、ダンディーで背筋がピーンと伸びた方でした。
米軍関係者とのパーティも多かったようで、船越尚友さん達とご一緒に桜坂や琉球ホールで社交ダンスも楽しんでいらっしゃいました。
朝は6時起床、国旗掲揚、決まった時間に決まった経路で会社廻りをこなし、毎週土曜日は三越の屋上の理髪店で整髪、昼食にそばを召し上がって帰宅なされていました。
その理髪店の徳吉泰伸さんの話によると、終の病で入院なされてからも決まった通り一週間に一度整髪をなさっていらした。特にシャンプーが好きでしたと。私もあやかって2週間に1度徳吉さんに整髪させてもらっています。もう40年になります。
口癖は「病気と借金は隠すものではない」「120才まで頑張りたい。」でした。
國場幸太郎翁
國場幸太郎さんは、明治33年12月19日国頭村生まれです。大城鎌吉さんの3つ年下です。
昭和63年8月2日、87歳で亡くなられています。年季奉公を経て、昭和6年に國場組を設立なさっています。
建設業、港湾荷役業、映画、ホテル、ゴルフ場など國和会を主宰、國場コンチェルンをまとめておいででした。商工会議所会頭は終身のような方でした。「誠心、誠意」、誠実一路がモットーでした。
沖縄の古い金言に「誠そうけーなんくるないさ」それを地でいくような人でした。 概算の名人とも言われていました。 唐ザンミンです。
「兄弟の力」、お父様の幸直翁の口癖は「他人に頼るなよ。ヤーニンジュ シル スンドーヤー。」だったと伝えられています。
御兄弟は10名を越すのではないでしょうか。幸八さんという方がいらしたので、女性を含めると10名を越すと思います。
現在那覇空港第二滑走路が建設中ですが、それが國場翁の夢で、二千億円あれば立派にできる。その完成が沖縄のすべての発展に通ずると言い続けておいででした。
その図面、パースを常に懐に入れ、ありとあらゆる場でそれを広げ、お話をなさる。他人が場所違いだと、辟易してもなお、それをやめずにいる方でした。南西航空の相談役でしたが、取締役会で議長が「何かご質問、ご意見は…」というと、議題外にも関わらず、待っていましたとばかりにそれを広げて長々と説明なさるのです。
大先輩の発言なので、議長は止めるに止められず、とても苦労していました。執念の人という感じでした。
エピソードを二つ。
その1つ
昭和54年12月、具志堅宗精翁が亡くなりました。社長の渡久山常誠氏も病に伏せていましたので、専務である私が実質的な葬儀責任者になりました。
先ず葬儀委員長をどなたにお願いするか。関係会社の責任者と家族の代表が集まって協議しました。
宮古群島知事、社会福祉協議会会長もなされたが、やはり具志堅宗精は経済人。よって経済界の代表を委員長にということで衆議一致しました。
経済界のトップは商工会議所会頭、國場幸太郎様です。
当時私は國場様と面識がございません。お願いに行くのを躊躇っていると、座間味庸文取締役が「私がお願いに一緒についていってあげるよ。」と助け船を出してくださいました。
國場様の都合の時間を伺いましたら「明日午前6時、現場廻りをする前に自宅で会いましょう。」ということになりました。
約束の時間に参りましたら、準備して待っていらっしゃいました。
「当社会長、具志堅宗精が亡くなりました。経済人としてお送りしたいと家族、関係者一同衆議一致しました。つきましては、沖縄経済界のトップでございます國場会頭様にぜひ葬儀委員長をお願いしたいと存じお願いに参りました。お引き受けくださいますよう伏してお願い申し上げます。」と私が申し上げました。
しばらく考えていらして、
「具志堅さんが私に葬儀委員長をとおっしゃったのかね。」と問われる。
「いいえ。」と事の成り行きを話そうとすると、座間味庸文さんが机の下で私の足を強く踏んで「はい。」と強い口調で返事をしてくれました。
「具志堅さんがね。」とおっしゃって、「はい、わかりました。お引き受けしましょう。」と快諾してくださいました。
私は自分の未熟さを痛いほど感ずると同時に、百戦錬磨の座間味氏のすごさに感服しました。
その後、いろいろな場所で國場翁にお会いし、ご挨拶申し上げると、決まって「貴方のところの具志堅さんは私を葬儀委員長に指名してくれたよね。」と懐かしそうにおっしゃって下さいました。
その2つ
國場翁は台湾との関係も大事になさっていました。中琉経済文化協会の方治先生達との交流で、沖縄の若い人達のための台湾留学制度を作って下さいました。今、沖縄と台湾との交流は、観光、物産、文化等で発展していますが、その礎を築いたのは國場翁や宮城仁四郎翁を始めとする先輩たちの皆様です。
その若者達も今や50歳、60歳です。昨年交流の貢献で県知事賞をもらったディーランドの平田久雄さんは、國場幸太郎留学奨学生の一人です。多額のお金をいただいたと言っています。彼は勉学に励んだ上、お嫁様までもらって帰国しています。
昨年11月26日に行われた経営協の総会(ザ・ナハテラス)
宮城仁四郎翁
明治35年1月10日生まれ。平成9年12月20日逝去。95歳でした。
大宜味村根路銘の出身です。
沖縄農林学校、鹿児島高等農林卒でした。國場、大城翁が小学校中退で丁稚奉公だったのに比し、その頃はかなり恵まれた方だったと思います。
鹿児島高農は当時有名で、琉大学長になられた高良鉄夫先生などもその出だと思います。
卒業後、沖縄製糖に入り、戦争中はインドネシアで活躍。戦後は琉球民政府に入り「戦後の製糖業振興策」の意見書を提出し、製糖業を始められました。その他製塩業、パイン、煙草、ウイスキー、セメント、ゴルフ場など琉展会コンチェルンを築かれました。
趣味の一つに囲碁があり、琉銀頭取の崎浜秀英さんが主催する囲碁会で度々打ってもらいました。中琉経済文化協会の会長を勤められていましたので、訪台の時、よくお供をさせていただきました。お酒もお好きでした。
一度囲碁会の巨匠、坂田栄男先生を迎えての囲碁会を、崎浜頭取が催して下さいました。
夕食会の後の程よい頃、「今日は風邪気味なので、お先に失礼します。」と崎浜頭取におっしゃって退席なさるので、玄関まで送ってさしあげました。
私が「今晩は花紋(なじみの店)にはいらっしゃらないのですか。」と伺うと、笑って「行こうか。」とおっしゃる。先の風邪の発言は何だったのでしょうか。
台湾の大飯店で稲嶺恵一さんと碁を打っていましたら、側から口出しをなさるのです。弱そうな人に味方されるのですよ。
ゴルフ場ではカートを運転するのが好きで、側の人がヒヤヒヤすることが多いと聞きました。おそらく運転免許証はお持ちではなかったのではと思います。
琉球ゴルフ場の南の1番の前に、翁の銅像が立っていました。ゴルフ場の経営者様が本土の方に移ったことによるのでしょうか。南の7番ホールの近くの丘に移されていました。
淋しそうでした。私は訪れる度に近くに行き、鼻や脇下に作られた地バチの巣などを落としていました。お婿さんの宮里俊一さんに「どこか適当な場所に移してくださいよ。淋しそうですよ。」と申していましたら、2年ほど前、琉球セメント名護工場事務所前に丁寧に移されていました。銅像も笑顔でした。
また琉煙時代、恵まれない高校生対象に留学資金を提供していました。
私の叔父が若死にし、その息子が那覇高校生で応募しましたら、幸い合格。とても助かりました。
昭和25年生で、比嘉道夫といい国費学生で東京工業大学を卒業、IBMに入社したので、帰省の際、宮城翁宅に挨拶に連れて行きました。
とても喜ばれて「奨学金はかなりの方に提供したが、御礼に訪れてきたのは君が初めてだ。」と85歳の祝いの品々をどっさりくださいました。
心の温かい人でした。
具志堅宗精翁
明治29年8月22日生まれ
昭和54年12月29日逝去 83歳
那覇市垣花出身
家業は味噌醤油業 農林学校中退
警察官試験合格 宮古多良間島駐在が初任地
警察講習所(現在の警察大学)卒業
那覇警察署長(昭和20年)戦時中
知念警察署長(戦後初代)
宮古群島知事(任命)
昭和25年、退官後、弟宗発氏と赤マルソウを経営
瞬く間に沖縄の60%以上のシェアを持つ企業に成長させました。オリオンビール、琉球アスファルト、琉球製油(食油)、全琉商事、糸満造船、ホテル西武オリオン、一時は東京六本木に本社を置くリウワ商事を設立。コルゲート歯磨き、パルモリーブ石鹸を全国的に販売していました。琉鵬会というコンチェルンを作り、警察官出身では異例の経済人でした。広報活動、宣伝活動に天性の才がありました。
赤マルソウ味噌、醤油60%以上。オリオンビール90%以上。コルゲート歯磨き90%以上。大変なシェアを持っていました。
復帰前、教育二法案が沖縄でも施行されることになり、教職員会や、各組合がその反対運動を広げましたが、経済界が賛成したので運動がエスカレートしました。保守と革新の正面衝突です。
その際、革新側の戦術に四ない運動というのがありました。
1.赤マルソウの味噌醤油を食べない
2.オリオンビールを飲まない
3.琉球煙草の製品を吸わない
4.コルゲート、パルモリーブ石鹸を使わない
要するに「食べない・飲まない・吸わない・使わない」4つのないない運動です。
4つの中の3つが具志堅翁の会社の製品、1つが宮城翁の製品でした。
社会現象になる程の影響を持っていたということになります。
教職員会や組合との対決は大衆商品であるだけに会社にとってはこたえました。
具志堅翁が赤マルソウを大きく伸ばした頃は、民間放送が開局。ラジオの普及時期で各家庭に親子ラジオが設置されました。そのラジオ放送の価値を最も早く理解、活用した経済人が具志堅翁だったと思います。赤マルソウはCMの第一号だったと思います。
社会福祉協議会会長も長く勤めており、福祉事業にも力を入れていました。
企業で得た利益は4分割すべきがモットーで具志堅翁の会社定款は「利益の一部は社会福祉に使う」と明記させていました。オリオンビールの定款にも残っており、また現在もそれを忠実に実行しているものと思います。
一方で批判も相当ありました。その第一は、二番手殺しです。二番目即ち社長の時は専務、会長の時は社長を次々に首にすることで有名でした。速断、速決、戦前の警察官僚の一面を持った人でした。幹部教育も厳しく、秘書は大変だったと思います。
先般琉球新報賞に輝いた現オリオンビール会長、嘉手苅義男氏は「六年間、毎日叱られていました。」と授賞式で懐かしんでいました。
良く育った社員、秘書の代表格でしょう。
自己主張が強く負けん気。自伝「なにくそやるぞ」を出版しましたが、それだけでは足りず、「続・なにくそやるぞ」を、そして「続々・なにくそやるぞ」を出版しましたが、それでもやまぬ人でした。
「リーダーは常に先頭に立たなければならない。他人の批判は気にするな。我が道を歩め」が教えでした。
告別式は那覇市民会館で催されましたが、挨拶に立った山中貞則先生が遺影に向かって「具志堅さん、あなたの一生は実にすばらしい一生でした。万歳であなたをお送りします。」と高らかに三唱なさいました。今でも懐かしく鮮明に覚えています。
そういう人に仕えたのが私の幸でありました。
おわりに
四名の先輩方を通していえるのは、
1.闘魂、ファイトです。自分がやらねば誰がやる
2.背後に良質な部下、労働力が豊かであったこと
3.時代背景 施政権の分離
4.厳しい少年、少年期
5.長寿
具志堅翁 83歳 國場翁 87歳 大城翁 94歳 宮城翁 95歳
当時の人間としては、驚くほどの長寿です。
6.職場から墓場へ一直線。隠居なし、理想的な生き方、死に方の一つでしょう。
エピソードを一つ。
具志堅宗精翁の奥様幸さんがお亡くなりになり、首里安国寺で告別式がありました。具志堅翁がなくなられて十年近く後のことです。
そこへ大城翁と國場翁がお悔やみに参りました。立派な一生を遂げられた方の告別式なので少々笑いのある温かい雰囲気でした。
大城翁がゴルフの話を始めました。
「90歳でゴルフを楽しんでいる人は日本中では沢山いるが、一番強いのは私だ。」とおっしゃる。居並ぶ一同、「それはすばらしい。日本一ですね。」と言ったら、すかさず、「大城先輩はゴルフだが、ボーリングでは私が一番強い。」と國場翁がおっしゃった。一同目を白黒。舌戦も両雄互角でした。
12月末、この原稿をまとめる為、先輩方の生地大宜味村、国頭村を訪ねて参りました。
ひなびた山奥の佇まいと思いながら山道を登っていきましたら、國場幸太郎記念館の裏山は砕石現場となり轟音をなり響かせていました。空港建設等の砕石場です。
執念を燃やし続けた國場翁には、この山々に響くけたたましい轟音は、いみじきく楽子守唄のように聞こえるのだろうなと思いつつ、下山して参りました。
エピローグ
筆者は比嘉氏の講演原稿を幾度となく読み返した。
講演の中で比嘉氏と四天王とのエピソードなど氏の経歴に照らして、まさしく実感が伝わり、おそらく会場の聴講者も感銘したであろう。
比嘉氏は講演の「結び」として、四天王に共通したことを列挙しているが、特にその中の「闘魂」と「長寿」、すなわち根性と健康は立身出世、成功の秘訣とも言えるのではないか。全体として比嘉氏は経営協の講演の中で私たちに人生の大きな道標(みちしるべ)を示唆させてくれた。(感謝)
回想
若き時代を顧みて、筆者が恐れ多くも四天王など大先輩と初対面したのは、1965年に行われた沖縄知名士劇の全出演者の初顔合せの宴会(那覇料亭)だった。(座元 沖縄テレビ)
筆者は当時21歳。名劇「首里城明け渡し」の中では中城玉子尚典の役に命じられていた。(写真参照)
名劇「首里城明け渡し」のクライマックス。尚泰王が城の明け渡しを決断して臣下に別れを告げる場面。
中央が尚泰王役の竹内和三郎氏(那覇商工会議所会頭)。後方が王子尚典役の筆者(沖縄こども新聞社社長)。
演劇の練習中、台本に基づいて、沖縄方言「首里言葉」で一生懸命にセリフを練習していると大先輩方が「君は若いから方言の首里言葉は大変だろう、がんばれよ」と声を掛けられたことは、現在でも強く印象に残っている。そして、どうしても忘れることが出来ないのは、四天王をはじめ多くの大先輩方から「神山君は沖縄の子ども達の為に新聞を発行しているようだが頑張りなさい。広告集めも大変だろう、いつでも広告を出してやるから誰かよこしなさい」と異句同音にご支援と激励のお言葉をいただいたことだ。広告収入は新聞事業の大原資であり、本当に頭の下がる思いだった。従って、特に四天王の関係企業には自ら足を運ぶことにした。
若き頃にこのような思いもあって、昨今の比嘉氏の講演には筆者も大いに感銘した。
(毎月1回定期更新、次回は11月1日更新)
