「心の魂が抉り取られた」
去る10月31日未明。あの首里城火災は実に衝撃的だった。
太平洋戦争末期の沖縄戦でも戦災に遭った首里城は、沖縄の祖国復帰20周年記念事業として1989年に復元工事が始まり、およそ30年の工期を経て見事に復元された歴史的な建造物だ。
戦後長きにわたり首里城の再建を待ち望んだ沖縄県民は、正殿をはじめ次々と復元される関連建造物を見て、自信を胸に抱き高揚感の連続だった。
更にその復元された正殿の地下に眠る„遺構”が2000年には世界文化遺産にも登録され、沖縄県民の象徴である首里城は全国的にも文化建造物として高く評価されるようになった。
確かに遺構の上に復元された建造物そのものは世界文化遺産ではないが、しかし、首里城跡は国の史跡にも指定され、現在では遺構と同等に首里城跡全体が沖縄県民にとって世界遺産化されていると言っても過言ではないだろう。訪れる多くの観光団もまた同じ思いだと思う。
火災当日(10月31日)の未明。ジョギングに行く為に玄関を出ると、東の方向でかなり大きな炎が焼え上がっている様子が、まだ暗闇ではあったが、はっきりと見えた。(写真参照)
10月31日午前5時10分。筆者の自宅マンションから遠方に見えた首里城火災の炎。
どうも気持ちが落着かず、その日は日課のジョギングを早目に切り上げることにして、足速に帰宅しテレビのチャンネルを捻って見ると、首里城の正殿が無惨にも焼け落ちていく映像が特別番組で生々しく中継されていた。
一瞬、自分の目を疑い、そして悪夢かと思って頭を強く叩いたりもしたがそれが現実であることが分かり、暫くは絶句のまま、まるで血液の循環が止ったかのようにただただ呆然とするしかなかった。
首里城は大交易時代に冠して栄えた琉球王国の象徴であり、沖縄県民の誇りと心の寄り所でもあった。首里城の全焼は本当に残念だ。今でも姿の見えない何者かに、心の魂が抉り取られたような思いがする。
文化庁は首里城再建の先頭に立て
首里城の再建に当っては、財政面や技術面そして施工分野の人材確保や資材調達など実に多くの課題が山積している。私たちは首里城の再建からどうしても逃れることは出来ない。県民も一丸となり、国と県もそれぞれがスピード感をもって取り組まなければならない。特に辺野古問題を抱えている沖縄県政では新たな難題とは言え誰が見ても当面の最重要課題だ。
玉城知事がなんと火災翌日に上京し、国に再建要請をしたことには一部に異論もあるようだが、それよりも前に安倍首相が早々と記者団の前で再建の全面支援を沖縄県民に約束をしたことは差詰め一定の評価に値しよう。
又して、宮田亮平文化庁長官も首里城の火災で正殿や南殿、北殿が全焼した被災現場を視察して、首里城のように復元された建物の今後の防火対策について「重要文化財か、そうでないかをあえて線引きすることなく素晴らしい建物の保存、管理はしっかりやっていきたい」と述べた上で、去る9月に全国の国宝や重要文化財の建物を対象に定めた「防火対策ガイドライン」を、首里城のような建物まで拡大して適用する考えを示した。
これは大いに結構なことだ。宮田長官個人の考えと言うのではなく、是非その方向で速やかに具体的な検討に入って欲しいものだ。
沖縄はかつて、琉球王朝時代には„王国”と呼ばれ、国内では唯一国家を形成したと言う歴史的にも尊い背景がある。それを象徴する首里城はそもそも他の都道府県の建造物とは次元が全く違う。首里城には独立国だった王府の尊厳と沖縄県民の矜恃及び魂が根強く宿っており、国が第一主義的に考えるのは当然であろう。
宮田長官も前職の東京芸術大学学長時代に県立芸術大学との交流を機会に、幾度となく首里城には足を運んだようであり、同長官は火災で焼失した首里城内で「真っ黒に焼けた大龍柱だけがたたずんでいるのを見て、何とも言えない喪失感を味うと共に、かつての琉球王国の栄華を思い起し、心は複雑だった。本当に残念だ」と大粒の涙を流したと言う。
ならば、宮田長官にはその大粒で涙したことを決して忘れることなく、監督機関のトップとして長官自身が陣頭指揮をとり、全焼した首里城の再建には全庁一丸となって奮闘して欲しいものだ。
辺野古問題との絡みで本気度が問われていた首相官邸も、早々と首里城再建へ向けた実務者レベルによる関係閣僚幹事会を開くなど、目に見える形で本格的に動き出した。
他方、地元沖縄側の対応はどうだろうか、辺野古問題を抱えた中で首里城再建へ向けた初動態勢が心許無いと言われる玉城県政の再建処方策と今後の展望を追ってみよう(次回へ続く)。
(「首里城問題」は本ブログ第89回以降も続く。毎月1回定期更新、次回は1月1日更新)