神山吉光が吠える

<第92回、93回>李登輝台湾元総統 沖縄記念講演

2020.08.17



2020年8月17日更新<第92回、93回>
(前編、後編一挙公開)

はじめに

 台湾の李登輝元総統が7月30日死去した。

李氏は台湾初の本省人(台湾出身)で、総統在任中は総統の直接選挙など台湾の民主化を強力に推進し「台湾民主化の父」と呼ばれた。沖縄はもとより、全国的にも李氏を慕う人々は多く、日本政府は森元首相を特使として派遣し、

 沖縄でも8月3日から5日間、那覇市の台北事務所で哀悼の記帳が行われた。

 2008年9月に沖縄講演の為に初来県した李氏は同年9月24日、沖縄市内で行われた仲井真弘多知事(当時)や経済界及び報道関係者の集まった昼食会で挨拶し、日本や台湾、中国が領有権を主張している注目の尖閣諸島(中国名、釣魚島)について「尖閣諸島は日本の領土だ」と述べ、領有権や漁業権の問題は存在しないとの見方を強調した。

 同諸島沖で同年六月に船舶事故がおきた際、馬英九政権(当時)が日本領海内の抗議活動に巡視船を同行させたことについて「魚場問題と関係なく政治的にやるだけ、神経質にならない方がよい」と語り、又、李氏は、中国が東シナ海で天然ガス田の開発を行っている海域についても「海洋法上は日本のものだ」との見方を示し、更に「尖閣諸島周辺の漁場は戦前、当時の沖縄県が管理などを台湾側に委託。台湾からも習慣的に漁に出掛けるなど、往来があった」と説明。今日の問題は「沖縄が米軍の占領下から日本に復帰した後に起きたにすぎない」とも語っている。

 詳細は省くが、李氏は総統退任後、岡山、京都、東京、熊本、北海道、福島、宮城県など沖縄を含む9つの都道府県を歴訪されているが、中でも沖縄への思いは格別であったような気がする。

 
 今回の当ブログ(第92回、93回)では、李元総統に謹んで哀悼の誠を捧げる意味から、2008年9月の沖縄初訪問時に李元総統が行った記念講演「学問のすゝめと日本文化の特徴」を、2008年発行の雑誌『沖縄世論』〈秋季号〉からその概要を前回の前編分も含めて一挙に転載し特集することにした。

李元総統の講演は宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで「学問のすゝめと日本文化の特徴」と題して行われ、超満員の会場を沸かせた。
 会場の聴衆には前もって有料の整理券が発行され、入場の際には空港での搭乗手続のように、一人ひとりが身体検査で入場が許された。



心から感謝

こんにちは台湾から参りました。ただいま紹介されました李登輝です。(拍手)

 四年前、宮城信男会長及び、永井獏先生より私を沖縄に招聘するための招聘状を頂いておりましたが、残念ながらその年は叶いませんでした。しかし、この度はかくも希代の沖縄の地を訪ねることが出来、そのうえ講演の機会を設けてくださり、大変大勢の方々とこうしてお会いすることが出来、これ以上の喜びはありません。

 この場を借りて関係各位に心から感謝の意を表します。(拍手)

 さて、今日ここにお集まりの皆様に何をお話しようかと考えておりましたが、宮城先生から「学問のすゝめ」という要望もあり、さらに私の長年に至る恩人への想いも加え、「学問のすゝめと日本文化の特徴」と題してお話することにしました。

 まず、「学問のすゝめ」について。「学問のすゝめ」と言えば皆様もご承知の通り福沢諭吉が1872年7月から1876年11月まで、5年間に亘り試行錯誤を重ねつつ出版された前後17編の小冊子であります。

 その後、1880年に合本、「学問のすゝめ序」、という前書きを加え、1冊の本に合本されました。その前書きによると初版以来、8年間で約70万冊売れたとのことです。

 最終的には300万冊以上が売れたとされ、当時の日本人の人口が3千万人程でしたから、実に10人に1人が読んだことになります。

 

 現在のような大規模な流通販路の確保や広告宣伝が難しかった時代においては、驚異的なベストセラーだと言えましょう。

 福沢は「掃除破壊と建置経営」と題する一文を作り、自己の思想を回顧してその方向を2段にわけ、「初段は掃除破壊の主義にして、第2段は建置経営の主義なり」、と自ら記したことがあります。

 「学問のすゝめ」というのは言うまでもなく、この初段に属する第一書であると言えましょう。つまり掃除破壊、封建時代にあったこの考え方をなんとかして掃除破壊していく。その目的がこの「学問のすゝめ」の目的であります。これより以前の福沢と言えば西洋事情の紹介、例えば西洋料理を食べたり西洋的な服を着けたり、いろんな西洋の事情、あるいはその新知識の普及を主眼とするものでありました。

 イデオロギー的な攻撃批判をする思想闘争というべきものは、いまだかつて加えられていませんでした。それが公然として宣言されるに至ったのは、「学問のすゝめ」で始まったと言えるでしょう。

 

 それは1872年に明治政府が学制を公布され、明治政府の改新的な政策を承認し、初めてこの革新事業を助成する決心が出来たからなのです。

 「学問のすゝめ」に書かれた「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云えり」と著名なこの一文を序文に述べたのも、明治政府により当時1872年に敷かれた学校制度、学制に「教育は国家の為ではなく、個人のために必要なのだ」という国民平等の公教育、おおやけな教育の理念が説かれたからなのです。そこでは必ず「各村に不学の子無く、不学の家が無く、家に不学の人無からしめんことを期す。」と宣言されました。具体的には全国を8大学区に、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に分け、学校制度の実現を目指すとされました。小学校は6歳入学と定め、上等、下等の各4年に分け、8年制としました。僅か数年で2万6千ほどの小学校が設立されましたが、国家に財力のなかった当時は大半が江戸時代までの寺子屋が転用されたものでした。

 明治政府の政策に対する福沢の観測は最初は当りませんでした。福沢諭吉はいわゆる佐幕派に属し、いわゆる勤皇派ではありません。だから明治維新に対してはそれほどのいわゆる大きな観測、つまり国を拓いて折に西洋の思想を入れて、そして国を発展させる考え方を持たなかったものでした。

 維新政府が着々と革新政策を実行したその果断は、寧ろ福沢にも偉業に思えるものであり、ことに1871年の廃藩置県の如きに至っては福沢をはじめ、当時の文明主義者が非常に驚いたものがあったからです。新政府の果断なる実行を見るに及んで、福沢は新しい希望と抱負をもって、ようやく新しい日本の思想的指導者の任務を自ら課する気持ちに進んできたのです。

 この「全国の人心を根底から転覆して」という第二の誓願の先ず形となって現れたのが「学問のすゝめ」です。

 

「学問のすゝめ」の主張

 

 次に「学問のすゝめ」の主張するものは何か。「学問のすゝめ」は名の如く学問の大切なことを説いたものです。虚実渦巻く理想と現実の見分け方を学問によって説明する意図が分かります。また学問の有無が人生に与える影響も説いております。日本の国民が行くべき道を示したものであると言えます。

 あの「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云えり」という冒頭の一句もやがて、その本来平等たるべき人に貴賤の別の生ずるのはひとえに人の学ぶ学ばざることによる、との結論を示すことにあったのです。福沢が進めた学問は旧来のものではなくて新しい実学だったのです。実学とは儒学の思弁的なものに対する実証的を意味するものでした。「漢文、古文などは良きものではあるがそこまでして勉強するものではない」、としてその意義を否定こそしないが「世間に取り扱われる程の価値があるものではない」と言って、儒学者や朱子学者が言うような難しい文句のある漢文や古文を学ぶより、先ず日常的に利用価値のある読み書き、計算、基本的な道徳などの実学を身に着けるべきと書かれています。こうして福沢は西洋の物理化学に傾倒し、また西洋の人文科学を知るようになったのです。先ず知ったのは経済学、次に倫理学でした。

 西洋の自然科学によって自然が厳密な法則によって支配される世界であることを知ったのです。次いて学んだ経済学は人文科学中にあって最も法則科学たる性質の濃いものだったのです。経済学を学んだ後、福沢は更に西洋倫理学を知りました。道徳的哲学要論を研究し、修身論の講義を慶応義塾で担当するまでに至ったのです。

 このように見てくると、「学問のすゝめ」はこうした西洋文明を代表する基本的な考え方を基礎にして、諸論文が書かれたものであると思われます。「学問のすゝめ」第8編、「わが心を以って他人の身を制すべからず」の1章、第7編「国民の職分を論ず」は第6編の「国法の尊きを論ず」に続くものであり国民に尊法の義務を説き、政府が万一暴政を行うことがあれば、正理を唱えて屈せず、その為に蒙る痛苦は甘んじて之を忍ぶ殉教者たるべし、と書かれました。これらの文章はかなり世論の批難を受けましたが「学問のすゝめ之評」という弁明の論文を投稿してからは攻撃の声を聞かなくなりました。

 「学問のすゝめ」の主張する事柄において福沢は今までの日本にはなかったことを強く主張し、自らの言うところを実行しました。彼は民間にあって日本文明の教師たることを以って己の任とし、終生一貫一日の如くであったことは大切なことでありました。

 次に東西文明の融合について、1886年3月、明治天皇は公家、大名の前で新しい国造りの大方針を明らかにする「五箇条の御誓文」いを発しました。議会を設置し公議世論に基づいて政治を行うこと、言論活動を活発にすることなどが唱えられました。これによって日本が世界、西洋の文明を取り入れ近代的な立憲国家として発展していく方向が決められたのです。

 明治政府は3つの強力な制度改革、すなわち学校制度、徴兵制度、租税制度の改革を推し進め、近代国家としての基礎を固めました。明治の初期には王政復古が宣言されたこともあり、宗教に対する政府の態度がかなり曖昧な状態を呈しました。西洋文明を取り入れなくてはならないことが次第に理解されていき、文明開化の重要性が説かれるようになり、1873年にはキリスト教も黙認されました。その前年には太陽暦が採用されて1日24時間、1週間は7日間、日曜は休日とされました。

 民間でも廃藩置県の前後から福沢諭吉の「学問のすゝめ」が出版され、身分ではなく実力が尊ばれる社会の到来を告げ、それに必要な独立自存、自助勤勉の精神の大切さが説かれ広く読まれました。そして多くの新聞や雑誌が発行され、私立の学校や塾も開かれて欧州諸国の生活や風俗、思想を紹介するようになったのです。

 人々の生活には大きな変化が生じました。東京などの大都市ではざんぎり頭の流行、洋服の着用、牛肉食、ランプの使用が広がり、煉瓦造りの洋風建築、ガス灯がある街灯、人力車やバスが走る文明開化の街並が出現しました。文明開化の風俗については表面的な西洋模倣としての批難する声もありました。が、日本人が他の文明から有益な物を学び取る高い能力を備えている現れをここから伺うことが出来ます。

 明治の学制発布令。前述したように政府は一挙に2万6千校の小学校を設立したが多くは寺子屋を転用したものでした。他方、藩制の大半は廃絶。寺子屋は国民に平等に開かれた小学校制度に吸収され、武士の子も町民、農民の子と一緒に机を並べて競争しあい、武士階級の子弟が通うための特別な学校は作られませんでした。

 ここに明治維新の革命に似た特徴が見られます。明治維新は、小学校の卒業にも試験があり能力に応じて上級学校へ進む道が出世を約束しました。更に身分を問わず新たな指導者層をつくる高等教育機関も整えられました。封建的身分差別は教育による能力主義によって少しづつ壊されてきました。これは日本が現代の様な平等な社会になった原因の一つであるということが言えます。

(中略)

日本人独特の美学

 次に、結局日本文化のその非常に高いものは何か、それは日本人の生活の中における情緒とその情緒の形、情緒という形それが日本人にはきちんとはっきり生活の中に持たれていると、日本文化の優れた面は今言ったような高い精神性に代表される即ち武士道精神に代表される日本人の生活にある哲学であると思います。心の底からこみ上げる強い意志と抑制力を持って個人が公のために心を尽くす以外に、また日本人の生活にある美を尊ぶ詩的な面があることも忘れてはなりません。

 日本人の美学、生活の上における日本人の美学というのは、私はここに大きな特徴があると思います。私が「『武士道』の解題」を書き、そして昨年にもまた「奥の細道」をずっともう歩かなくてはならないと言うのは、これによって何か日本人の文化はこういう良いものを持っているよね。武士道がある。武士道の精神が日本人の生活の中にある。

 次に来るのが日本人のいわゆる美学的な性格、つまり日本人の情緒とその形。そういうものが日本の生活の中にあると、これは自然への感受性と調和であり、もののあはれ、さび、わび、という外国にはわからない翻訳の出来ない言葉です。外国人に言っても解らない。結局それは日本人が直感的に解る言葉なのです。もののあはれ、さび、わび、を生活の中に見つけ出す。日本人独特の、また人間として普遍的になくてはならない美学が生活の中に入っております。これが日本人の美学です。

 昔、中国で老子という哲学者がおりました。この老子という人は、道は道であるべきでいわゆるその普通の道ではないと、「道可道非常道」という有名な言葉を残して亡くなりましたが、中国ではこの言葉は全然中国人の生活の中には入っておりません。ところがこの言葉で言うのは、道というものは口で言えるものではなく、口で言えるものは永久に道ではないと言うんです。これが老子の言葉なのです。

 日本人は生涯においてお花を生ける時には花道、お茶を飲む時には茶道、という様に生活におけるあらゆる行為が道ということになっております。弓道、剣道、全て道というものにつながって行く。これが結局自然への調和のひとつの形、情緒を形にして作ったものであります。それが俳句や和歌という様な形で表現されて、自然との間における共生的な関係を持っています。これは世界の人々にはなかなか解るものではありません。

 

 私が「『武士道』の解題」を出版し。そして更に奥の細道を歩きたい気持ちは、日本文化の優れた精神性と美学的な日本人の情緒を、何とかして外国人や今の若い日本の人々に伝えたいからこそ行ったのです。直感的に、私は芭蕉の作られました著作の「奥の細道」はこの様な日本文化の美を丁度よくまとめたものであると私は思っております。この日本人の情緒と形を整えたような書物あるいはそういう様なものは沢山あります。でも非常に簡単で誰にでもわかりやすいものは、私は芭蕉の「奥の細道」だと思っております。

 奥の細道で平泉に到着した芭蕉と曽良が見たのは金鶏山、今はただの山しか残っていない。そしてそれを昔を偲びつつ、呆然と立ち尽くして詠んだのが「夏草や兵どもが夢の跡」でした。時間を超えて華やかな過去がすべて一つの草むらにしか過ぎません。こういう考え方というのは日本人にしかない。山寺を訪れては、蝉の声の湖と周囲の静けさの中で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠みました。もう此処まで来ますと人間と自然との調和、心にしみこんで何の説明もいりません。こんなことは日本人しか出来ないものだと私は思っております。芭蕉は旅情の日照りが醒めやらず、最後の気力をふるい起こし海岸沿いに越後の国に入ります。出雲崎に泊まった時に詠まれた「荒海や佐渡に横たふ天河」は壮大な景観と佐渡への思いの入った句でした。

 私も松島に行ったときに、芭蕉が松島の麗しさに結局詠えなかったのを我慢して、いわゆる自分なりの句を作ってみました。「松島やひかりと影の眩しかり」という言葉を残しまして(拍手)なんでも瑞巌寺でそれを石碑にして建てたそうです。もう感謝に堪えません。ああいう有名な人の脇にこういう言葉が残されるということは感激の至りであります。

 芭蕉が「奥の細道」で読んだこの三句だけでも、時間と空間、存在している景観を十分に情緒と形で表した日本人らしさの代表的なものでありましょう。

 

「学問のすゝめ」の結論

 

「学問のすゝめ」。結論を言いましょう。「学問のすゝめ」第15編は「事物を疑って取捨を断ずる事」という題の下に、「事物を疑って」物事を疑って、「取捨」を取り上げる、捨てる、この取捨を断ずること、という題の下に、信の世界に偽り多く疑いの世界に真理多しと書かれております。その趣旨とするところは、瑞巌、文明の進歩は疑いの一事から起こります。これは西洋哲学で良くいいます、結局疑いの中に我々は哲学を見出さなくてはならないと。

 疑いから我々は全てを見つけ出すというこの考え方、西洋諸国の人民が今日の文明に達したその源を訪ねれば疑いの一点より出でざるものなしという事なのです。福沢がこの編で戒めたのは軽信軽疑の弊であるが、「軽信軽疑」軽く信じて軽く疑うこの態度、これはよくありませんこれに反対です。即ち物事に対しては批判的な態度を持たくなくてはならないということです。「学問のすゝめ」を読んで特に感じられるのは旺盛なる福沢の批判的な精神です。今の社会ではあるいは批判することはよくないという様に思われています。批判することはよくないんだという考え方を持っている。

 それは皇帝型、当時の皇帝型統制の時代の話であって自由な人民にとっては旺盛なるこの批判といわゆる疑いを持つということは非常に大事なことであります。私も昨日の夜、レセプションの中において、今の台湾というのは丁度「五里霧中」の中にあると。民主主義的な社会になりましたが結局指導者のやり方如何によって、台湾の今の状態というのは霧に囲まれて人民は何処に道があるかわかりません。「五里霧中」なのです。

その時に一番大事なものは何かと言いますと恐らく太陽でしょう。強い太陽に照らされて霧が発散され、霧が薄くなったとき初めて、台湾の人民は自分の行く道、この国の行く道というのがはっきりします。

 台湾だけではなく今の日本にもそういう様な指導者無き状態が非常に国民の混乱になっているのではないかと私も思っております。これが結局この批判的な態度、それに何か強いリーダーシップというものを我々は欲しております。「学問のすゝめ」を読んで特に感じられるものは旺盛なる批判的な精神です。

 福沢は一方では猛烈な筆鋒を以って習慣の惑溺、即ち迷った本心を疑うことを攻撃しましたが同時に他面においては、無批判的な開化先生の西洋欧化を戒めました。

 福沢は「文明論之概略」において、人類文明の進歩の限り無き前途を楽観すると同時に全巻の結論において日本にとっての文明の要用は国の独立を護る手段たる一事にあるとし、国の独立は目的なり、国民の文明はこの目的に対する術なりと述べております。当時日本の独立を憂えた福沢の心は種々の発言によって伺われるのです。

「学問のすゝめ」の趣旨も結局ここに帰するものではないかと思います。明治維新後は欧米の学問や芸術が流れ込み新しい日本の文化万端がその様式において改革と前進を進めた時期ですが、福沢諭吉、西田幾多郎、夏目漱石などの偉大な思想的な貢献を我々は忘れてはならない。

 一国の文化の形成は「伝統」と「進歩」という一見相反するかの様に見える二つの概念を如何に止揚するかという問題に帰するわけですが、「進歩」を重視すあまり「伝統」を軽んずるという様な二者選択的な生き方は愚の骨頂だと私は思います。良いものは良いものとして、やはり残す。そして進歩的な進んだものは取り入れて、自分なりのもっと違ったものにつくり上げていく。

 最近の日本では一般的にあまりにも物質的な面ばかりに傾いているといわれています。その結果、皮相的な「進歩」に目を奪われ、大前提となるべき精神的な「伝統」や文化の重みが見えなくなってしまっています。伝統なくして真の進歩などありえないのです。私は一昨年60年ぶりに家族4人で日本を一週間訪問し観光する機会を得ました。そして昨年は念願の奥の細道を辿る旅が出来たわけですが、この2回の旅行で私が強く感じたことは、日本は戦後60年で大変な経済発展を遂げているということです。

 

沖縄独自の発展に感服

 

 私が昨日沖縄に来まして、昨日すぐいわゆる南側における昔の激戦地、平和祈念館、平和記念公園を訪問し、そしてそこら辺りを歩いて感じたことは、結局日本も沖縄も非常に発展したということです。沖縄と日本の内地を比べて違うところ、はっきりしております。私がここで言いたいことは、ここに何か精神的なものを植えなくてはならないということです。

 日本は戦後60年、大変な経済発展を遂げてきて現在では世界第二位の経済大国をつくり上げました。政治も大きく変わり民主的な平和国として世界各国の尊敬を得ることが出来ました。戦争に負けた。もう頭が上がらない。日本はかつて戦争に負けたことはなかった。二千年ぶりの戦争で日本は戦争に負けた。それによる日本の心の、いわゆる打撃というものは大きかった。我慢しなくてはならない。人の言うことを聞かなくてはならない。我慢しつつ結局経済を発展させる以外に道が無かった。政治的にも何か批判的なことは何も言えませんでした。その様なことは恐らく沖縄・琉球ではもっとひどいものだったと私は思います。

 その中でこれだけ今私が見ただけでも、この沖縄が非常に大きな発展を遂げている。そして街並みも全てが非常に整ってきていた。私にとっては感服する以外に実際言うことがありません。皆さん本当によく努力しました。あの戦争で沖縄があれだけの犠牲を出して大激戦地になって結局、国が壊されてそのおかげで台湾は助かりました。でなければ台湾も沖縄に負けない酷い戦場になり、そして大変なことになっていたでしょう。こういうことから見まして、現在の台湾も日本も、沖縄も経済一点張りの繁栄を求めるというこの気持ちだけではなく、昔あったところの精神を取り戻す。伝統や文化を失わずに奮闘しなければならないんじゃないかと思っております。

 現在の沖縄においては失業者数、失業率が7%、日本最高です。日本では4%、台湾では4.3%、高い時は5%、私が総統の時は2.2%しかなかった。この状態の中で結局どうすべきかという問題が出てきます。日本人の多くは今も社会の規則に基づいて行動しております。街並を歩いて自動車のこの交通状態を見て、沖縄も非常にこの社会の規則に基づいて行動しています。社会的な秩序がきちんと保たれ公共の場所でも最高のサービスを提供しております。

 でも、もう一歩進めなければならない。これが日本の将来あるべき道じゃないかと思います。ここまで出来るような国というのは私は国際的に見ても恐らく日本沖縄だけではないでしょうか。60年前にあれだけ破壊をなされ、そして今こういう状態にまで取り戻してきた。そこにまた精神的なものを植え付け頑張らなければいけないことが沢山ある。これはお互いの心の結びつき、お互いの援助で以って解決して行きましょう。

 台湾と沖縄は非常に近い。台湾で出来ることも実は沖縄をどうするべきかという問題。台湾では今お砂糖はもうない。サトウキビはもう植えていない。沖縄はまだ植えている。沖縄も変化しなくてはならないのではないかと私は思っている。

 そうして台湾と沖縄の間における心の絆を築き上げていきましょう。そしてこれによって経済発展、お金さえあれば良い、生活さえ良ければいいという考えから、日本文化の精神面である「公に奉ずる」という発想が欠如してはいけません。福沢の書いた「学問のすゝめ」も結論的には日本文化の新しい一面を強調しているではありませんか。日本文化の伝統を失わずに沖縄も維持して、そして発展していきましょう。

 ご清聴ありがとうございました。(拍手)

〈 完 〉