神山吉光が吠える

<第99回>間違いだらけの『謝花昇 伝』~大里康永氏の著者を仲里嘉彦が酷評~

2021.04.09



2021年4月10日更新<第99回>


はじめに

 コロナ禍ではあるが、筆者の留守中に元万国津梁機構の仲里嘉彦理事長から膨大な書簡・資料が届けられた。その書簡と資料では、大里康永氏の著書『謝花昇 伝』に大きな間違いが随所にあることを具体的に指摘されている。
『謝花昇 伝』の著者、大里康永氏は、1899(明治32)年沖縄県那覇市生まれ。1928(昭和3)年日本大学社会科を卒業。社会事業、消費組合運動に従事し、1933年東京神田で新興社を経営して出版活動を行う。著書に『窮乏日本の新興政策―最窮乏地沖縄を例として』『飢餓線上の農村』(発禁)『沖縄よ起ち上れ』『義人謝花昇伝』(『沖縄自由民権運動』の初版)『文化沖縄の建設』『平良新助伝』がある。
同本の初版(大平出版社)は 1970 年10月で、学校でも琉球・沖縄の歴史上の代表的な人物として、同本を素材に教育が行われ、又、多くの識者の論考や出版物の編集にも同本が素材として使用されており、従って、その影響は大きく決して看過出来る問題ではない。今後、仲里氏の指摘は歴史を正す意味から議論を呼ぶであろう。
 では、仲里氏が書簡の中で指摘した間違いの一部分を、分り易くそこでは中見出しを付して紹介しよう。

 

沖縄の将来に禍根を残さない為に

 具体的には明治12年のいわゆる琉球処分により、廃藩置県前後における沖縄県の歴史は、わが国のそれぞれの時代背景や1372年察度王時代の冊封使による朝貢関係にあった中国をはじめとする国際情勢の動向を踏まえながら、主観的、感情的な視点ではなく、客観的にあらゆる角度から、それぞれの時代背景にも十分配慮しながら、改めて沖縄の歴史を検証し、後世に、より正確な歴史を残すことは現在に生きるわれわれの責務であり、使命であると考えているものです。

 このような視点から琉球処分前後から明治末までの間、明治政府の沖縄に対する施策がどう展開したかについて、あらゆる視点から検証する必要があると考えております。とくに大里康永氏の著者『謝花昇伝』には数多くの基本的な間違いがあり、歴史を根本から見直すことこそが沖縄の将来に禍根を残さないようにする必要があると判断するものです。

(謝花昇と奈良原知事は杣山問題で対決することになりましたが、謝花昇は、最初はまったく奈良原知事と同じ立場で、杣山の払い下げに高圧的に本部間切りの代表に県の主張を一方的に説明しております。この後に杣山問題については 官地民木の立場を取る奈良原知事に対し、謝花昇は民地民木論を展開しておりますが、そのことについてはお逢いする折に直接説明したいと思います。)

 それでは「謝花昇伝」の問題点の一部分を列挙しておきます。

謝花昇と中江兆民らとの接点に疑問

 「謝花昇伝」の63ページに明治22年中江兆民や幸徳秋水、木下尚江と交流があったことを記述しておりますが、明治政府は自由民権運動を弾圧するため、中江兆民は保安条例により明治20年東京を追放され、大阪で東雲新聞を発行し、主筆となりますが、明治22年大日本帝国憲法発効の恩赦を得て追放処分が解除され、明治23年第1回衆議院議員総選挙では大阪4区から出馬して当選する。
 なお、中江は22年恩赦を得た同年10月に上京するが、謝花昇が中江兆民に逢ったという場所も違っており、謝花が中江に逢ったという信用性は低い。
 幸徳秋水は、明治20年に上京し、翌年11月から同郷の中江兆民の家で学僕として住み込み、その門弟となるが、同年12月に公布施行された保安条例で兆民が大阪に移ったため、秋水は故郷の高知に帰り、さらに明治22年10月に中江とともに上京する。当時は、これといった活動をしているのではないので、謝花昇がたびたび逢っていることはまず考えにくい。
 木下尚江は、明治21年東京専門学校を卒業した後は、松本に戻り、地元ローカル紙「信濃日報」の記者となり、木下尚江が中央で活躍するのは毎日新聞(旧横浜毎日新聞)に入ってからで、明治34年幸徳秋水、片山潜、境利彦ら社会民主党の結成に参加するが、その前後から幸徳秋水、木下尚江とのつきあいがはじまったのである。
 従って、謝花昇が木下尚江とあったという時期は、東京専門学校を卒業して地元長野県松本に帰った時期でその接点も怪しくなってくる。

土地整理事業の問題

 また、謝花昇伝の77ページに「土地整理事業は奈良原知事の功績ではなく、当時政府より派遣された一木喜徳郎、江木千之、目賀田種太郎、若槻礼次郎などであり、奈良原はただの介添役であったにすぎない」と断言している。
 これらもまったく間違いだらけで、明治32年から明治36年までの土地整理事業は奈良原の陣頭指揮によって完成したものであり、戦前は、それを記念して奥武山公園に奈良原知事の銅像の建立をみたのである。

 まず、一木喜徳郎については、内務書記官当時の1894年(明治27年)2月に命を受けて旧慣調査のために来県。県内をくまなく巡って、民心の動向・旧慣諸制度運用の実態などをつぶさに調査、改革の方向性や手順などについても報告した。その報告書『一木書記官取調書』は、旧慣期の沖縄のようすを知る上で貴重な基礎資料なっている。
 同年江木憲治局長を出張させしめて県の司法制度を調査させ、税制や土地制度を前途のごとく、数百年前そのままであるから、大蔵省でも27年には祝辰巳を沖縄収税長に任じて兼て税法の調査を命じ、28年には主税局長目賀田種太郎を沖縄県諸制度改正案取調委員長とし、内国税課長若槻礼次郎が専らのその調査に従事したいということである。
 以上、大里康永氏が指摘する土地整理事業に一木、江木、目賀田、若槻の4氏は、明治32年から36年にかけて完成した土地整理事業とかかわりはなく、明治27年から28年にかけた沖縄関係に携わったのであることを明らかにしておきたい。
 大里康永氏が指摘する土地整理事業に前述の4氏はまったくかかわりはないのである。「土地整理事業において奈良原はただの介添役であったにすぎない」と大里康永は謝花昇伝で記述しているが、土地整理事業のような世紀の巨大プロジェクトであっても県知事たる者は1つの事業に専念することは許されず、県知事の業務は県政全般を俯瞰し、行政運営に全責任を負うものであり、大化改新、太閤検地と並ぶ日本3大土地改革の1つである地税改正は、明治7年に事業着手、明治14年に完成を見ているが、沖縄において地租改正という名目ではなく、名称を土地整理事業として明治32年に事業を着手、明治36年に完成したことにより、農民がはじめて農地を所有することが出来たことは、画期的なことであり、当時沖縄県知事であった奈良原繁の功績は永遠に歴史に残ることになったのである。
 この功績を讃えて明治41年に奥武山公園に建立されたのが奈良原繁の銅像である。

奈良原知事の辞任問題

 明治31年、大隈を首相に板垣を内相とする憲政党内閣が誕生したため、謝花昇は同年上京をして板垣内相に会見し、具さに奈良原の秕政を指摘し、即刻沖縄から追放されることを要求し、謝花の要求に内諾を与えたとしている。そして奈良原の後任には、熊本出身の嘉悦氏房に当てるという人事まで内定したと記述している。
 しかし、隈板内閣は時に駐米公使に就任していた星享は、大隈重信が外務大臣を兼務したことから、内閣の帰国命令もないのに勝手に帰国し、外務大臣のポストを要求するが拒絶されたことから、内閣内に亀裂が生まれ、引きつづき尾崎行雄文部大臣の共和演説事件で内閣瓦解の発端となった事件である。
 共和演説事件とは、尾崎行雄が明治31年8月21日に帝国教育茶話会で行った演説の中で、世人には米国を拝金の本元のように思っているが、米国では金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い。日本では共和政治を行う気遣い はないが、仮に共和政治が有りという夢を見たとしても、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことは出来ないという内容であった。このような内閣内部のごたごたもあり第一次大隈内閣は4ヶ月で崩壊した。
 「隈板内閣崩壊後内相には、西郷従道に内定したことから、板垣内相から西郷に奈良原知事の更迭を了解した」と記述しているが、それは信じがたいという根拠について次に説明したい。
 琉球新報創立にからんで県庁が所有する印刷機の払い下げで奈良原知事とのやり取りの中で知事が西郷従道に記者を派遣する条件にしていることが琉球新報の100年史に記述しているので、それを引用することで、いかに奈良原と西郷との親密な関係であるか明らかにしたい。
 以下は琉球新報100年史からの抜粋である。
 <琉球新報は社長の尚順を頭に高嶺朝教、護得久朝維、豊見城盛和、大田朝敷といずれも20代の知識人によって明治26年、沖縄県初の新聞が創刊された。
 新聞を発行する為には印刷機が必要で、県内には1台県庁にあったのみであったが、琉球新報としては県から印刷機を7万円で払い下げてもらう条件として東京からお目付け役として記者を派遣するという条件を呑まざるを得なかったのである。
 これはその当時東京では自由民権運動や言論戦が活発で、新聞は時には権力者に歯向かう、権力者にとっても好ましくないという警戒心があって東京から記者を派遣することを条件につけたものである。>
 この文面から見ても、奈良原にとっては薩摩藩の後輩に当る西郷従道に記者派遣の要請をしていることからみて、2人は極めて密接な関係があり、信頼関係があったことは十分うなづける事であり、謝花昇の奈良原沖縄県知事の追い出しに西郷が加担することはまず考えられない。
 さらに言えば、日本の歴史上の有名な寺田屋事件には、奈良原について西郷従道もこの事件に加わっていることからみても親密な関係にあったといえるわけで、大里康永氏の記述は信じがたい。

當山久三の経歴も虚偽

 謝花昇伝239ページには當山久三が東京新宿の淀橋尋常高等小学校校長に任命されていることについて、當山久三本人の履歴書に記述はなく、地元金武町史にもこの記述はないが、多くの沖縄の著名な歴史学者も大里康永氏の『謝花昇伝』を引用して、それが真実であるように流布している。
 當山久三氏の淀橋尋常高等小学校校長が真実であるかどうかについて同じ金武町出身で、戦後秋田県で小学校の校長をやっていた石田氏が淀橋尋常高等小学校の校長に取材したところ、このような人物は本校にはおられないということが確認された。
 石田氏は当時の淀橋尋常高等小学校校長から頂いた歴代当校長名についてもリストを頂いており、當山久三氏が淀橋尋常高等小学校長であったことは虚偽であることが判明しております。(写真参照)

 そこで大里康永氏の「謝花昇伝」に記述されている問題をストレートに追求すると逆に、大きな問題に発展する可能性もあり、とりあえず、明治25年から明治41年までの15年10ヶ月、沖縄県知事として活躍した奈良原繁第八代沖縄県知事の「沖縄県発展の基礎を築いた奈良原繁」のタイトルで、ゆくゆくは本として出版し、沖縄の間違った沖縄の歴史を根本から改変する必要があると考えております。

(元一般社団法人 万国津梁機構 仲里嘉彦)

おわりに

 以上が今回仲里氏から筆者に寄せられた書簡の一部である。
 尚、仲里嘉彦氏は1938年12月本部町生まれ。71年産業新聞那覇支局長を経て、82年に株式会社春夏秋冬社を創立し社長に就任。平成23年9月一般社団法人万国津梁機構を設立をし理事長に就任。平成29年4月同社団を勇退し、現在は沖縄振興などに関わる調査研究に専念している。
 著書に「胎動する沖縄の企業」「三畳間からの発想」「戦いすんで日が昇る(上・下巻)などがある。

 なかんずく、大里康永氏の著書「謝花昇伝」には、事実を歪曲したと思われる個所が随所にあるようであり、従ってそれらを徹底的に検証することによって、敵対していた第8代:沖縄県知事奈良原繁の在任期間15年10ヶ月間に、奈良原知事が沖縄発展にどのように貢献したのかも、客観的立場から評価することは歴史上からも極めて重要ではないかと思われる。
 仲里氏から筆者に寄せられた書簡を今回このように公開することによって、とりわけ沖縄現代史の中の『謝花昇伝』を見直す議論の起点になれば幸いである。

〈完〉



毎度ご愛読を賜り、誠にありがとうございます。
さて、第100回目の更新でご座いますが、
企画原稿の調整により、6月10日(木)に更新させていただきます。
どうぞ了承ください。